冬苺

薄氷は遠くから来る言葉かな

北向きの窓の匂いや冬すみれ

十二月欅は空を手放せり

目覚めては光を食べる霜柱

霜の朝楽譜の上を歩むごとし

崖下の家に陽当たるクリスマス

冬苺空は鏡を沈めおり

寒月光みしりと滲みている柱

初空や湖の匂いの硝子窓

オリオンが霜を降らせる母の石


 昨年秋に母親が亡くなり、一年七か月ぶりに実家に帰省した。偶然その頃からコロナウイルス感染者が減少していたのは不幸中の幸いだった。親を亡くした喪失感は大きかったが、通夜、葬儀、多くの手続きで連日疲弊し、心が感傷に向かう余裕がない状況だった。

 葬儀後の家の片付けなどに追われていた十月のある朝のこと、庭に出ると、すっかり荒れて雑草が生えた花壇の隅に、カワラノギクの小さな花が三輪ほど咲いているのを見つけた。この季節に野山で沢山咲いている、ごくありふれた花である。なのになぜか目を離せなくなった。紫の可憐な花たちが身を寄せ合って朝日を浴びているその姿を見ていると、自分の体が花と同じくらいに小さくなっていくような気がした。そして次の瞬間、ずっと絶たれていた自分と外界を繋ぐ何かの回路が突然復活して、自分の中に何かみずみずしいものが流れこんで来るのを感じた。それは喜びとか癒しといった情緒的なものというより、植物が日光を浴びて生まれる光合成のエネルギーを体感できたらこんな感じかと思うほど、生命に直結する力だという気がした。不思議な高揚感と戸惑いをおぼえて、しばらく庭の隅で立ち尽くしていた。

 家族を亡くすという出来事に遭うと、こんな風に非日常的な感覚が働くのだろうか。それとも小さな花にも反応してしまうほど心が疲れて乾ききっていたのだろうか。その時はそんな風に思ったが、時が経つにつれ、あの体験が自分の中で重要なものになって来ている。肉親の死から来る虚無感。生きている者達の営みに関わらなければいけない徒労感。それに疲れ果ててしまう自分。それらを超えて、心だけがたどり着ける広い世界に触れたいという深い願望があり、小さな花の美しさと生命力に触れた時、それが心の中で弾けたのではないか。そしてこの思いを的確に表現できる言葉を、自分はまだ持っていないことに気が付いた。

 詩歌に関わる者ならば、植物、天候、景色といった、言葉のないものから何か啓示を受ける体験をしたことがあると思う。まだ名付けられていない、言葉になっていない美しさや思いがこの世界には沢山ある。見慣れた風景も、見方次第で新しい発見ができるはずだ。表現者は、目の前の対象を通じて無限の世界をかいま見るのだ。それを表現するため言葉の世界に心を遊ばせることは、人生の醍醐味であろう。


 

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