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親の心配は時に子供の可能性を潰す:ドリームキラーは意外と身近にいる

先週の日曜日に日本に帰国して1週間が経った。

ビザの手続きのための帰国なので、やるべきことはあるが、相手の反応を待つ時間の方が多く、なにやらやきもきしながら過ごす時間が長い。

東京のインド大使館で申請の手続きをした後、東京にい続ける必要はなくなったので、東北の実家に向かう事にした。

日本に帰国したからには、両親に会っておきたい。「次の機会に」などと言っていると「次」がいつになるのかが分からない。



雪が積もっている実家は本当に久しぶりだった。

雪がある地域に住むのは大変なことだ。毎日の雪かき、屋根の雪下ろし、暖房には費用がかかるし、移動も難しい場合がある。

それでも久しぶりに雪を見ると嬉しさで若干興奮した。

キンと冷えた空気
広がる真っ白な世界
時々、木の枝から落ちてくる雪の音

次にいつ雪がある時に日本に帰って来るか分からないので、久しぶりにスキーに行こうかと考えた。

すると、父親の心配性が発動した。

「え?スキー?スキーは楽しいだけじゃないんだぞ。危ないんだ。」
「子供とかすごいスピードで突っ込んでくるかもしれないぞ。」

そう。スキーは楽しいが、非常に危険なスポーツでもある。
私ももちろん知っているが、危険さを理解して欲しい父親は続ける。

「今せっかく(離婚も終わって)第二の人生を始めようとしているところなのに、(ケガをして)子供達に会えなくなったらどうする?」

「昔、XX学校にいた頃の子供がぶつかって亡くなってしまったんだ。・・・小学4年生だったな・・・。」

最悪の事態を想定して『注意して欲しい』と思っての発言ではあるのだが、聞いていると『スキーに行ったら、死ぬか、植物人間になる』のが前提である様な気分になってきて、だんだんと気分が落ち込んできた。



これを聞くと、最初は「私だってスキーが危ない事ぐらいわかってるもん」と、反発する様な気持ちになる。

次に、「そっか。。こんなに大事故になるかもしれないんだ。死んでしまったり、植物人間になったらどうしよう?」と、反発する気持ちはありつつも、自分でも父親が描く『最悪の事態』が起こるものと想像してしまう様になる。

知らないうちに、近くにいる父親の心配が自分にも伝播してくるのだ。

その後は、「お父さんがこうやって言うなら、行くのやめようかな。スキーって危ないし、こうやって行くことに反対されているし。」と、段々と、やりたいと思った事をやらない方向に気持ちが傾いていく。

この時点で既に『やらない理由』を探し始めている自分がいることに気が付いた。

父親が与える『失敗するイメージ』がやりたい気持ちにブレーキをかけることももちろんなのだが、同時に、「反対されているのにそれに従わないと、お父さんの反応が面倒だし」と、父親に反発する事を面倒だと考えている自分がいる事にも気づく。

(注:父は面と向かって反対していないが、行って欲しくないと思ってはいる。)

父親は良かれと思い注意しているだけなのだが、その注意があまりにも明確に『失敗する(事故にあう)』イメージを訴えてくるため、やってみたい事を諦めたい気持ちにかられた。



今回はこの時点で、「あ、自分はやめたい方向に気持ちが動いているな」と気づくことができた。

その上で、「自分はどうしたいのか?」を考えて、

「自分はスキーに行きたいと思っているんだから、行こう。」と結論を出すことができた。

それは自分が大人になったからかもしれないし、
両親と葉一緒に暮らしていないからかもしれない。

父親が言っている事は注意するべき最悪の事態で、結論は自分で決定することができると理解できたが、それでも「行こう」と決心するためには多少の力を要した。

やはり、最悪の事態が起こってしまったらどうしようと考えてしまう事を止められなかったし、反対されていることを決行する事にもエネルギーはいるのだ。



私はもう大人になったし、普段は一緒に暮らしていないから、父親の呪縛とも言える『良かれと思っての注意=ドリームキラー』を冷静に判断して、自分の気持ちを優先して決定することができたが、

これがもし、自分がまだ自立していない状態で、一緒に暮らしていたらどうだろう?と考えると、ぞっとしてしまった。

実は、私は今でもかなり重度の「悲観主義者」である。

起こりもしないような最悪の事態を想定して、一人でぐるぐると心配してしまう傾向にある。

これは父親と全く同じ考え方をしているのだが、幸い、今は一人なので、事実を整理して判断する様にしているし、「心配している事は起こらない」と考える様にもしている。

それでも心配で仕方なくなる時もあるのだが。。。



これがもし、父親と一緒に暮らしている状態であったらどうなるだろう??

一緒に暮らしている人が、「もしかしたら起こるかもしれない最悪の事態」を隣で言い続けていたら、やはり同じ様に毎日心配ばかりして、心配することに時間を費やして、自分がしたい事を諦めてばかりいる人生になったのではないだろうか。

言葉には力がある。そして、人間は環境で変わる生き物だ。良くも悪くも。

自分も40代半ばになり、残されている時間は毎日減っているのだ。
離婚も決まり、子供達も大きくなった今、やってみたいことにはチャレンジしてみたいと思っている。



なお、この日の最後に、実は家にスキー用の手袋やゴーグル一式があることが判明したのだが、家を出るりぎりまで、貸してもらえるのかそうじゃないのか分からずイライラした。

父親としては、娘に貸してあげたいけど、スキーには行って欲しくなかったのだろう。

結局、それらは貸してもらえたのだが、その後で「お父さんからかりた手袋などの用具一式は破損しない様にお願いします。」とメッセージが来て、なにやらイラっとしたのだった。

貸すのがいやならそう言って欲しいし、私なら子供が無事ならものが壊れても気にしないが。

自分の気持ちをはっきり伝えることもしないのに、察して欲しいと言うのは相手に依存し過ぎである。



両親の事は大事に思っているし、何かあった時は、世界のどこにいたとしても帰国して支えるつもりでいる。

しかし、今回の事で、一緒の家に暮らすことは辞めた方がいいかもしれないな、と思ってしまった。


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