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決断するという事

自己満なのですが、
高校3年生の時に弁論大会の課題で、喋るために書いたこちらの作文、めちゃくちゃ良いのでここに記録しておきたいと思います。

17歳の私は毎日、いや毎秒、死ぬことばかり考えていました。ほんとヤダ
その苦悩をなんとか他人にとってプラスに伝わるように一生懸命やさしく変換して作った文章です。
とはいえ、未熟な私の稚拙な文章をそのまま載せるので、読みにくい箇所ばかりです;_;
もし暇があれば、ぜひ…!




『決断』

"Fair is foul,and foul is fair."

シェイクスピアの「マクベス」の有名なフレーズだ。
劇の冒頭で雷鳴が轟き稲妻が光る中、三人の魔女が呪文のようにその台詞を唱える。
その後に起こる、不穏な展開をほのめかすこの台詞は、あまりに不気味で強烈だ。

この文の和訳は
「良いは悪いで悪いは良い」や
「綺麗は穢い、穢いは綺麗」、
「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」など、実に多様である。

私はこの言葉に出逢ってからずっと、頭から離れないでいる。
例えば、私が友達に誕生日プレゼントをした時。
相手のことを想って贈り物を選んでも、相手には不必要なものかもしれない。
例えば、恋人の過去を知りたい時。
純粋な興味で尋ねたものが、相手のタブーに触れてしまうかもしれない。

それだけではない。
友達と談笑している時、親と言い合いになった時、誰かに助言をした時…。

私が良いと思っていたことは、誰かにとって悪いことで、もしかしたら相手の立場を考えない言動があったかもしれない。
そして、私の中の三人の魔女が囁くのだ。

"Fair is foul,and foul is fair."!

それでは、フェアとファールの境界線は一体何であろうか。

二年前の七月二十六日未明、
神奈川県相模原市の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で入居者が次々と刃物で刺され、19人が殺害されたほか27人が重軽傷を負った。

この事件は当時大きくニュースにも取り上げられ、記憶にある人も多いのではないか。
そしてその多くの人はこの事件に怒りや嫌悪感を抱いただろう。

私もその1人だ。
殺人は絶対悪である。
ましてや、「社会的弱者」と呼ばれる障がい者を標的にするのは、あまりに残酷で無惨だ。

しかし犯人は、こう供述している。

「施設で働いているときに、一日中唸っている障害者を見て、殺害することを決意した。」
「車椅子に縛られている利用者も多く、保護者と絶縁の状態も珍しくない。」
「自分は障害者の家族を救ってあげた。」

これらの発言に犯人の罪悪感は感じられない。
むしろ世の中を良くするために行なったようにも聞こえる。 
結局犯人には死刑判決が下されたが、反省も後悔もしていないと報道されている。

障がいをもっていることが不幸だと考えた犯人。
しかしこれは、私達も同じではないか。

メディアが取り上げがちな『頑張っている障害者』。
困難に立ち向かう障がい者の生き様をチャリティーだの感動秘話だのと特集している。
言い換えれば『可哀想な障害者』だ。

しかしどこの障がい者が自分を可哀想だと言っているのか。
特別支援学校で勤めていた私の父は「彼らは今の状態が日常だ。」と言う。
障がいをネガティブにしているのは私達なのではないか。
そして事件の標的が障がい者だから、より残酷だも考えた私自身も、犯人と紙一重なのではないか。

何が良くて、何が悪いのか。
何がフェアで何がファールなのか。
その境界線はどこまでも曖昧だ。

いつだって自分のフェアにはファールがついて回る。
私達はたくさんのファールを抱えて、毎日を生きなくてはならない。
時には自信を失い、決断を誰かに委ねたくもなるだろう。

私もある。
フェアかファールか判断するのもされるのも苦痛で仕方がない。
命を保つ事さえ困難になる程、時にその決断は私に重くのしかかる。

しかし生きている限り私達は決断から逃れられない。
自分の決断は自分にしかできないし、その数々の決断は自分の個性となりアイデンティティとなる。

そして確かに今日も、三人の魔女は世界に言う。
あなたの見ている深い闇は、輝く光にもなる。
決して忘れるな。

"Fair is foul,and foul is fair."!

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