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武勇伝を語るよりも

いつものたわいのない話から


最近、知人とゆっくり話す機会があった。若い頃と違って話題は健康に関することが多くなる。
ずっと付き合わなくてはならない糖尿病や高血圧、頻尿等の話しになり、結局は、「健康が一番、大切だ、何よりも健康」というお決まりのパターンになる。確かに健康は大切である。お金で買えるものではない。いつもならそんな話しでお開きの流れになるのだが、その日は、知人が突然、
「確かに健康も大事だし、お金では買えないけど、一番悲しいのは、自分は誰からも必要とされてない、自分の代わりはいくらでもいる、自分は、いてもいなくても一緒だ、と感じることかもしれない」と語り出したのである。

武勇伝にすがる人生の後半戦


筆者は、ちょっとびっくりしたのだが、ある意味において真実かもしれないと、ドキッともした。
彼の言葉には、確かに一理ある。
仕事でいえば自分の代わりはたくさんいるだろう。誰かが辞めても、亡くなっても組織や仕事はまわるのである。絶対にあなたや私がいなければいけないということはない。あなたが定年退職したからといって会社は倒産したりはしない。在職中は「あなたがいないと会社が困ります、動きませんよ」と言われても退職すれば見向きもされない。退職したらすることがない。過去の会社や組織での栄光や肩書き、業績、武勇伝等にすがって、パートナーさんや周りから煙たがられるのが関の山だ、という何とも切ない話しになったのである。
彼は、会社や組織での肩書きや業績、活動等しか自分には残らないかもしれないというのである。すごく不安だというのである。
仕事以外に趣味もなく、楽しみもないらしい。

新たな居場所作りが必要だ


しかし、現在の社会は、様々な事情で会社や組織の活動が困難な方の社会参加を拒んでいる側面も多い。筆者としては、どうしてもそちらの側面に視点がいってしまうのである。会社や組織で働けて、賃金を得れることは大きなことである、と感じるのである。
これからは、仕事や会社を退いたとしても一般的な経済活動が難しかったとしても、それぞれの能力や適性、個性に合わせた居場所や活動の場所を新たに創り出すことが社会全体の大きなテーマになるような気がするのは、筆者だけであろうか?
何よりも人に対して寛容な創造性と多様性を持った成熟した社会が必要である、と筆者は考えている。
また、会社や組織での活動を終えたとしても様々な形で社会参加をして有限の人生を楽しむことを忘れたくないものである。この世の時間には、いずれ終わりがある。過去の業績や栄光にすがって自慢話をして、武勇伝を語って、周りから嫌われて時間を過ごすのは、すごくもったいない気がする。趣味であれ仕事であれ、新たな世界を知り、その扉を開くことは人生に変化と刺激をもたらしてくれるものである。

改めて今後の人生について考える良い機会であった。
読者のみなさんも新たな趣味や今までと違った形での社会参加の扉を開かれることを願っている。
尚、この記事に関しては知人の許可を得て掲載している。

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