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My Favorite Things(4) シンプル × シンプルの奥行きについて。エシレバターとVIRONのバゲット・レトロドール

紙と鉛筆と消しゴムを渡されて、リンゴの絵を描きなさいと言われたとする。

何十分、何時間か掛けてリンゴを描き上げたとして、その人の嗜好や力量によって仕上がりはずいぶん異なる。単に丸を描いたもの、ぐしゃぐしゃに塗りつぶしたもの、本物と見まごうほどリアルなもの、同じ条件で描かれた絵を集めて並べてみると、どれひとつとして同じものはないだろうが、ある程度の客観性を有しつつ、上手い、下手には分けられるように思う。

同じ紙と鉛筆と消しゴムから生み出されたものでもその差は歴然。殆どはそのうちゴミ箱に投げ入れられる運命だが、中には額装して飾っておきたいものもあるだろう。シンプルだからこそ差がわかりやすい。

あまり上手じゃない人に一流の道具、たとえばアルシェ紙とステッドラーのルモグラフの鉛筆を渡したところで、下手な絵が上手になるわけではない。逆に上手な人にはどんな道具を渡しても上手だろう。まさに弘法筆を選ばず、というわけだ。

一方、シンプルなものこそ、素材が重視される。美味しい水、これは人の手が介入する余地は少ない。長い歳月をかけて土壌に濾過され、適度なミネラルをその内側に蓄えることで、どこまでもクリアながら滋味深い水になることだろう。そこで人がすることは、そうして湧き出る水をそのまま掬って口元に運ぶだけだ。何も足さない、何も引かない。

素材が良ければそれで全てなのか、その素材の加工の中にも人の技はあるのか。氏より育ちなのか、育ちより氏なのか? どうやら二者択一では無さそうだ。


20年近く前になるが、まだ結婚前の妻とお昼にフランス料理を食べに行ったことがある。当時妻は地方に住んでいて会うのは年に数回くらいだった。久しぶりに会って食事をするので、ここは何か東京的でインパクトのあるものをと思い、とある料理の対決番組でもよく登場するシェフの店に行ったのだった。そこで我々はその後の人生に大きな影響を与えるものと出会った。

料理の数々やサービスは、さすが人気店なだけあってなかなかよかった。客層は若めでお値段もそんなに高くはなかったように思う。あれから20年ほど経っているので細かくは覚えてないのだけれど、ひとつ鮮明に覚えているものがある。銀のトレーに入れられた円形のバターだ。

そのバターをつけてパンを食べると、ふくよかな香りが鼻を通り抜け、旨味をぎゅっと封じ込めた味が口いっぱいに広がった。ミルク由来の甘味と旨味の交わるところを最高潮に仕立て上げたような、絶妙さがそこにはあった。
私も妻も、そのバターを前に呆然とし、そして料理そっちのけで競うようにパンにそのバターを付けて食べたのだった。

給仕の方にそのバターについて訊くと「フランスのエシレバター」だと教えてくれた。エシレバター、これまで聞いたことのないバターだった。

私の家でも子供の頃、パンを食べるのにバターをよく付けていた。缶に入ったトラピストバターや瓶に入った小岩井バターが食卓に供され、日曜の朝食時にフランスパンと一緒に食べるのだ。父がペーパーフィルターで淹れるコーヒーの香りとフランスパン、それにバターは幸せな少年時代の思い出にも繋がっている。

しかし、このレストランで出会ったエシレバターはその記憶の中のバターとも違い、段違いにおいしかったのだった。

エシレバター、フランス中西部のエシレ村のエシレ酪農協同組合が1894年から生産する歴史ある発酵バターだ。石灰分の多い土壌で育った牧草を食みながら広々とした牧場でのんびり育った牛たちのお乳は乳脂肪が多く、バター作りに適している。そして搾乳された牛乳は24時間以内に工房に届けられ、現代のバター製造でよく使われるステンレス製ではなく昔ながらの木製の攪拌機でバターになるのだという。そういうことの積み重ねでエシレバターになるのだ。

食事を終えて、レストランを出ても、あのバターの香り、味わいは脳裏にしっかりと残った。そして青山にある高級スーパーで売られているのを見つけた。ただ、そのあまりの高額さに驚いた。雪印のバターが1箱4〜500円で売られている一方、エシレバターは同量程度でその5倍程度、同一価格のエシレバターも売られているが、そうなると量が1/5程度になるのであった。そういうわけで、当時は価格が一般的なバターと同程度で量が1/5のエシレバターを買ってきて大事に食べたものだった。

バターを塗るのはバゲットが最も適しているように思うが、一口にバゲットと言ってもさまざまな店からさまざまなバゲットが出ている。都内のめぼしい店のものをあらかた試し、「これだ!」というのを見つけた。Viron(ヴィロン)のバゲットだ。

Vironは渋谷にオープンしたブーランジェリー(パン屋)とブラッスリー(狭義の意味で居酒屋、食事とお酒を出す店)で、その後、東京駅近くの丸の内にも店舗をオープンしている。Vironのバゲットには数種類あるが、私が好きなのはこの店の代名詞とも言えるバゲット・レトロドールというバゲットだ。フランスのレトロドールというバゲット専用の小麦粉を使って作られたバゲットで、コンディションが良くてベストなタイミングだと、クラスト(パンの表面の硬いところ)がカリッとした美味しい状態で食べられる。中のクラムの具合も絶妙で、噛めば噛むほど小麦粉のいい香りがして、バゲットだけで食事を済ませても構わないと思えるほど進む進むのだ。

こう言うと叱られるかもしれないが、お煎餅の食感にちょっと似てる。ちょっと香ばしい香りもして歯触り軽い。ただ雨の日に買うと、クラストは間延びしてしまい、そのままではベストな状態は保てず、ちょっと火を入れた方がいい。

他のパン屋さんにも美味しいバゲットはあるが、Vironのレトロドールはそのクラストの香ばしさと小麦粉そのものの味わいが群を抜いている。ただその日の気候やパンの出来具合によって左右されることもあり、パンはナマモノなので一度食べただけで判断するのは早計である。名店の1日前に焼かれたパンより、普通のパン屋さんの焼き立ての方が圧倒的に美味しい。特にバゲットは焼いてからの時間経過による変化が大きいので、遠くの名店より近くでお気に入りの店を探した方がいい。

ちなみにバゲットはシンプルだからこそ店による差は大きく、よく食べている5、6店舗ほどのバゲットは目隠しで食べるブラインドテストをしても全部当てられると思う。人それぞれに性格や個性があるように、バゲットにも案外性格や個性が多様だ。

さて、このVironのバゲット・レトロドールにエシレバターを塗って食べるとどうなるか・・・ もう、最高のマリアージュが生まれるのだ。

バゲットのクラストの香ばしさ、エシレバターの芳醇な香り、たまらず口に頬張るとクラストのカリカリがやってきて、噛み締めるとレトロドールの小麦の味わいとエシレのミルクの奥深い味が重なり合い、交わり、一体となって口いっぱいに広がった香りが鼻から抜けていく。

Vironはこのマリアージュにはもちろん気付いていて、店頭にてエシレバターを買うこともできる。店に置いているのは無塩バターの小ぶりのものだが、私は有塩バターで食べるのが好きで、しかも大ぶりで買った方が家族全員でたっぷり使えるので、大きいブロック状の有塩のエシレをスーパーマーケットで買うことにしているし、我が家の冷蔵庫からエシレが途絶えたことはない

最近、エシレがやっているケーキやマドレーヌを販売する店がありここも人気だが、やはりバターそのものを味わうのが理にかなっている。

シンプルなものはシンプルにいただく。
素材そのものの味わいを味わい尽くす。
人知の及ばない奥行きがそこにはある。

そう、世界は素晴らしいモノで満ち溢れている。

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