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[Nights at NAHA Town]僕と沖縄

今、東京に住む僕と沖縄の関係はちょっと複雑だ。

僕は沖縄の出身ではない。沖縄では「ナイチャー」とか「ヤマトンチュ」と呼ばれる存在だ。僕の両親は内地の出身だし、僕も沖縄生まれではなく、いわゆる「ウチナンチュ」ではない。とはいえ、僕のアイデンティティの多くは沖縄で培われた。そういう意味では「シマナイチャー」というのが適切な気もする。いや、元シマナイチャーというところか。

小学生の頃、父の仕事の関係で沖縄の那覇に引っ越してきた。家は那覇のメインストリートである国際通りを入った一銀通りという通りに面しており、これまで住んでいた宮崎市と比べるとずいぶん都会だった。

例えば学校への登校スタイルや景色を比べるとその差は歴然だった。僕が通った宮崎の小学校は集団登校で、近所の子供達が毎朝集合場所に集まって、数名で隊列を組んで30分ほどかけて登校した。戸建ての家やアパートが並ぶ住宅地を通り雑木林を抜けると景色が開け、田んぼや牛舎が並ぶ長閑な風景が広がっていた。

一方、那覇の小学校は自宅と同じ一銀通りに面しており、コンクリートだらけだ。どんなにゆっくり登校しても、ものの4、5分で学校に着いた。近所の子どもたちが集まって登校するのではなく、めいめいに登校するのだ。

やがて中学に上がると、那覇の隣の浦添市にある中学に通った。毎朝スクールバスに乗って登校するのだが、スクールバスの発着場所は安里一区という国際通りのさらに先のバス停で、そういうわけで僕は毎日、国際通りを久茂地から松尾・牧志・安里と通って登校していた。

朝の登校時には前日の賑わいの残香のようなものを感じつつ、まだどの店も空いていない、しんと静まり返った国際通りを歩いた。そして学校が終わって帰る際にスクールバスを降りて国際通りを歩くと、通り全体が活気に満ちていた。バブルが弾ける前の那覇、夏のハイシーズンにもなると日焼けした観光客でごった返し、まっすぐ歩くことはできなかった。それがやがて日常の風景になり、僕も国際通りの風景に取り込まれていった。

母におつかいを頼まれると、近所のデパート、山形屋やダイナハに出かけることが多かった。牧志のマキシーのハンディマン(東急ハンズのような店だ)や久茂地の文教図書(当時の那覇では大きい書店だった)は僕の行きつけの店だった。おやつのサーターアンダギーは牧志の公設市場に出かけて買っていた。ちなみに40年近い歳月で、上記の店は一店舗も残っておらず、公設市場も建て替えられているらしい。

食生活は一気にアメリカナイズされ、学校が午前中に終わる土曜日は国際通りのシェーキーズに友人らとたむろし、ペパロニピザやスパイシーに味付けされたポテトを腹一杯になるまで頬張った。マクドナルドやA&Wのハンバーガ、ダンキンドーナツ、ブルーシールのアイスクリームなどが日常食になった。

当時の僕の部屋はマンションの角部屋だった。部屋の奥の窓は一銀通りに面しており、もう一つの窓、僕の机の向こうの窓は国際通りの方面を向いていた。国際通りまで150m、窓を開け放つと一銀通りの向かい側にある近所の中華料理店から流れる中国風の曲や国際通りの喧騒の音がかすかに聞こえた。僕は机に向かって本を読んだり勉強するときに、よく窓を開け放って周りの音や漂う南の街の風を感じていた。街の活気を感じ、街を自分の中に取り込むような感覚があった。

夜、僕はこの部屋でラジオを87.3MhzのFM沖縄に合わせ、東京FMの夜の番組を聴いていた。JT サウンドスケープ、サントリー サウンドマーケット、オートラマ サウンドインライフ、そしてJALのジェットストリーム。これらの番組、そして机の前の国際通りに面した窓はそういうめくるめく音楽や東京そして世界へ開く窓だった。音楽への親しみ、そして世界への憧れがこの場所で醸成されたのだった。

やがて自分のお小遣いを貯めてジャズのCDを買って聴くようになった。ちなみに僕が最初に買ったCDはセロニアス・モンクのセロニアス・ヒムセルフというピアノのソロアルバムだった。中学生が最初に聴くにはなかなかストイックなチョイスだが、これには理由がある。小学生の頃、家のレコードで感銘を受けたマイルス・デイビスのRound Midnight(アルバム「'Round  About Midnight」の演奏だ)の作曲者がセロニアス・モンクということを知り、このアルバムを買ったのだった。モンクのゴツゴツとしたソロ、それも結構ハードコアなアルバムだけれど、僕は一生懸命、何度も何度も聴いた。この頃買ったアルバムは(CDだから非接触の媒体だけれど、例えとして)擦り切れるほど聴き倒したものだった。

こうして僕は中学を卒業してこの島を去るまでの多感な小学生・中学生の時代を那覇で過ごした。那覇の景色、風土、ライフスタイル、その時聴いた音楽、友人との語らい・・・ そういうものが思春期の僕を作り上げたのだろう。それはその瞬間の刹那的なものではなく、今に至るまで連綿と続く営みであり、こだまのように響き合ったり、新しい知識や情報や快楽を注意深くより分けて獲得することで、結実した僕の中にある嗜好や思考のコアのようなものだと感じる。

今は実家は別のところにあり誰も親戚は住んでおらず沖縄で出生もしていない。なので沖縄を出身地というのは違う。ただ「幼少期の自分の人格形成に最も影響を与えたと考えられる土地」というのを出身地の定義とするならば、僕は確実に沖縄の出身ということになる。

それが僕と沖縄のちょっと複雑な関係ということになる。

国際通りを入った一銀通りのマンションの3階の角部屋、僕は今でも目を瞑ればあの部屋と当時の僕の感覚のようなものを思い出すことができる。

僕がこのアルバムを"Nights at NAHA Town"と名付けたのは、そういう背景がある。


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