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①『白獅子夢物語』

 それは"運命"が決めた予言。

 『獣の姿を借りる神がその森を守る。
 月の神の世界から無を司る魔女が現れる時、彼女の刃が獣の神を借りる神を殺して、森は消え去り大地は無となる』
 それが初めの伝説だった。

 しかし人間達の解釈は、時代とともに変わっていった。

 『森を支配するのは、獣の姿の神。
 月の神に守られた世界から救世主は現れ、選ばれし者が無敵の短剣を手に入いれた時、神を倒して世界を救う』

 また時代が変われば、伝説は変わる。

 『森の主(あるじ)は、獣の神。獰猛な支配者。
 月の神に守られた世界から、聖少女は現れる。選ばれしものだけが抜ける短剣を手にして、獣の神に突き立てた時、世界は救われる』

 "運命"は決めた。
 獣の神と少女が争う予言。
 それは今――――…実現する。
 星の神に囲まれた世界から、少女は現れた。
 獣の神が支配する森の中へ――――…。


 ◇◆◆◆◇

♰01 少女と白獅子



 世界は涙で歪んでいく。
 ここはどこ?
 どこにいるべきなの?
 あたしは誰?
 誰になるべきなの?
 どんな子になればいいの?
 ねぇ、どうしたらいいの?
 苦しみに、喉は押し潰されたかのように、声は出なかった。
 全てが消えてなくなればいいのに――――…。
 あたしが消えてしまえばいいのに――――…。

 水彩絵の具で描いたようなスカイブルーの空がある。
 靄のようにかかっているのは、薄い雲だろうか。
 泣き疲れて視界が霞んでいるだけかと、擦るために手を動かす。そしたら、柔らかいものに触れた。ちょっと湿ってる。何かと探ってみれば、あたしはそれの上に横たわっていることに気付く。
 雑草?
 草の匂いがする。背伸びをして、深呼吸をしてみた。気持ちがいい。
 でもそんな場所にいた覚えがなくて、あたしは首を傾げるように右を向く。
 若葉色の生い茂る芝生の先には、均等の高さで太い幹の木々が並んでいた。
 森……?
 左を向いても右と同じような光景だ。あたしは森にいると理解した。
 何故森にいるのだろうかと、記憶を遡る。確かマンションの階段隅に踞っていたはず。
 それがどうして、こんな場所へ。

「……ああ、夢か」

 すぐに答えがわかった。
 水色の空と若葉色の森は幻想的だ。夢だと気付くには早すぎるけれど、ここは現実じゃない。
 背伸びをして、息を深く吐いた。
 起き上がりあたしは中学の制服を整える。黒の地味なセーラー服は嫌い。夢なら、もっと素敵な服にしてくれたらいいのに。
 プリーツスカートを伸ばしたあとに、胸元の赤いスカーフを弄る。
 夢だと気付いても、目覚める気配がない。ま、夢って大抵思い通りにはいかないから、仕方ないか。
 湿った地面に手をついて起き上がる。
 なんだかリアルな夢だな、と感じた。

「わぁ……!」

 芝生と呼んでは失礼なくらい、広い草原にあたしはいた。
 なんて素敵で、開放的な夢なんだろうか。
 両手を広げて、クルクルとその場で回る。黒いスカートを舞い上がらせて、限界まで回り続けて倒れた。
 身体に当たる風の感触、グラリと回った感覚、お尻への衝撃、本当にリアルだなこの夢。
 気持ちいいから、まだ覚めないでほしい。
 耳をすませば鳥のさえずりと、木の葉が風に揺れる音がする。
 誰もいない。
 あたしだけだ。
 ほっとして深く息を吐いた。
 みずみずしい草の上で背伸びをして、不思議な空を眺める。
 静かだ。とても心地よい。草のベッドに沈んでしまいそう。
 これを安堵と言うのかな。
 ぼんやりしていれば、いつの間にか涙が溢れていたことに気付いた。
 夢の中でも泣いてる。呆れちゃう。
 なんで泣いているのだろうか。頭の隅っこで思った。
 とても心地いいのに、何故泣いてしまうのだろうか。

「うわあああんっ!」

 声を上げて泣いた。
 悲しくないはずなのに、涙が止まらない。声を上げ続けた。
 今まで上げたことないくらい、声を出して泣いた。
 ふと、気付く。
 鳥のさえずりが止まった。
 あたしが口を閉じれば、夢の世界が無音になる。

「――…?」

 手をついて起き上がってみたら、景色に一つだけ違うものが加わっていた。
 若葉色の森の前に、真っ白なライオンが佇んでいる。
 純白の鬣のライオンは、青い青い澄んだ瞳であたしをじっと見つめてきた。
 あたしの涙が止まるほど、美しいライオン。
 踏まれることのない降り積もった雪みたいに、真っ白な毛並み。海の底みたいな瞳は、光で美しい青に輝く。
 なんて美しいホワイトライオンなんだろう。素敵な夢。
 見つめていれば、彼から歩み寄ってきた。
 ゆっくりとその足で草を踏み、あたしの前まで来た。
 鬣に触りたいと思ってたんだ。あたしは喜んで手を伸ばそうとした。
 でもその手に、彼の息が吹きかかったから、止める。
 ライオンの鬣に触れることは許されないだろう。
 だって、鬣は誇りの象徴。触れたら怒られる。
 その前にライオンは肉食動物だ。あたしは食われてしまう。
 夢の中で食べられては、台無しだ。せっかくいい夢なんだから。

「……ふふ、美しいライオンさん。初めまして、あたしはキオリ。姫と織って書いて、姫織(きおり)」

 愛想よく笑いかければそんな展開にならないと思って、あたしは白いライオンに話し掛けた。
 白いライオンはじっとあたしを青い瞳で見つめてくる。
 本当に綺麗な瞳だと見惚れた。

「織姫じゃなくてね、あえて姫織って名付けたんだって……織姫なんて、素敵な名前を与えるのはもったいなかったみたい」

 不意に嫌なことを思い出しかけて、慌てて他のことを考える。

「貴方の名前は? 偉大な白いライオンさん」

 首を傾げて訊いた。
 ちょっと大袈裟な言葉を使ってみるけど、夢の中だからいいでしょ。
 ライオンは笑わなかった。名前も名乗ってくれなかった。夢の中だからって、喋らないらしい。残念。

「じゃあ、あたしが呼び名をつけてもいいかな? んーと、えーと……レオ! 気高き獅子のレオ。素敵な響きよね、レオ。レーオ」

 そのままだけれど、素敵だからレオと呼ぶことにした。響きが大好き。
 ライオンも、猫も、大好き。
 笑ってみても、目の前のレオはただ瞬きをして静かにあたしを見る。
 やっぱり触りたいな。

「触ってもいいかな? レオ」

 訊いてみたけれど、レオはやっぱり答えない。
 静かに呼吸をして、瞬く。
 その彼にゆっくりと手を伸ばす。
 指先が頬に触れる。すると彼は、腰を下ろして座った。触っていいんだ。
 あたしは喜んで彼の顔をなぞるように撫でた。
 顔を覆う短い毛が、気持ちいい肌触り。目の下を撫でれば、目を閉じた。息を吐く鼻をすっとなぞり、額まで手を伸ばす。

「貴方って本当に素敵……鬣も触ってもいい?」

 思わず溜め息を溢す。
 中学一年生が出す誉め言葉なんて、たくさんない。ふんわりと彼の勇ましい顔を包む鬣にも触れようとする。
 そしたら、レオは唇を開けて歯をちらつかせた。
 どうやら、だめらしい。
 しょぼんとして手を膝の上に置く。
 その鬣に埋もれたかったのに……。

「いいじゃない、いいじゃない、あたしの夢なんだから、もふもふしても……そりゃ、ライオンのプライドがあるでしょうけども……」

 ぐちぐちと不満を漏らしながら、レオの前足を指先でつつく。
 噛み付かれて夢から覚める、なんてことにはなりたくないから、もふもふしませんけどね!

「あたしの夢の中に出てくるのは、君だけか……レオ。まぁ、いいんだけどね。レオだけで、別にいい。別に、夢の中まで会いたい人はいないんだ……むしろね、誰とも会いたくない……」

 またレオの顔に手を伸ばして触れた。
 真っ直ぐに見据えるような青い瞳を覗きながら、あたしは話し続ける。

「他の人に会ってもしょうがないもの。この夢は現実逃避かな? 逃げたかったんだ。あたし……逃げられない状況に追い込まれちゃったの。あたしね、父親を知らないの。母のお腹にいたあたしを置いて、父親は他の人と結婚したんだって。だからね、お母さんが結婚した相手はね、あたしの実の父親じゃないの。ままちちって言うんだって、変だよね継父。それ、知ったの最近なんだ。弟に、"本当のお姉ちゃんじゃない"って言われちゃったの。ショックだったな……同じお母さんのお腹から生まれたのに、お姉ちゃんじゃないって言われちゃったの。そうお父さんに聞いたんだって。あたしね……あたしね……実のお父さんだと思ってたんだよ。本当のお父さんだって思ってた。なのにね、なのにね、あの人はあたしを娘だって、認めてなかったんだ。父親だと思ってたのに、父親だと思ってた人に、愛されてなかったんだ。多分小さい頃にあたしは母から聞いてたと思う、でもね、ほら、子どもだからわからないじゃない、全部は理解できないじゃない、だからね、彼を本当のお父さんだって思いたかったんだ。あたしに厳しくても、従ったよ。あたしだけ、クリスマスプレゼントを買ってくれなくなっても、好かれたかったんだ。いい子にしてたんだよ。お皿洗いとか家事の手伝いもして、習い事もちゃんといってきたんだよ。中学生になるまでだけど……いい子になろうと頑張ったんだよ、好かれようと努力しようとしたんだよ、でもね、でもね――――…全部だめだったの。なにがだめだったのかな? 努力が足りなかったのかな? …………あたしのせいで、離婚したんだって。あたしを愛さないから、離婚するんだって。ねぇ、どうしたらいいのかな? あたしのせいで、弟も妹も苦しんじゃうんだ。弟と妹まで、あたしを嫌っちゃうよ、どうしよう。お母さんが"裁判になったら私を選びなさい"って言ったの、お母さん先に別居してどっか行っちゃった。お父さんが"皆で仲良く暮らそう"って言ってきたの。お母さんを繋ぎ止めようと、あたしに今更優しくしようとするの。なんで、なんで、二人して酷いこと言うんだろう。あたしは選べないのに。選べないって、知らないのかな。子どもになんでそんな酷い選択を迫るのかな。もう、壊れちゃったよ。母親がいない家はめちゃくちゃだよ、あたしはいとこの家に行くようにお母さんに言われたの。あのめちゃくちゃな家に、弟と妹を残して出ていって、いとこの家に居候。最低なお姉ちゃんだよね、本当に最低。弟も妹も悪くないのに、巻き添えにして、不幸にしちゃって……なんて、なんてっ、酷い娘なんだろうっ」

 次から次へと言葉とともに涙が出てきた。
 こんなに喋ったのは、生まれて初めてかもしれない。
 喉が痛いと感じた。
 夢の中でさえ、現実から逃れられないというの?
 こうして口に出すのは初めてだった。
 夢の中だから、あたしが思っていることに過ぎないのかな。
 学校の友だちに家族の話はしない。だって、皆が皆、いつも楽しそうに笑ってるから、話せなかった。
 どうせ、理解してもらえないと思った。
 いつも楽しそうに笑う皆には、わからない。それに、誰もなにも出来ないでしょ。
 だって、家族の問題だもの。
 どうにも出来ない。
 どこで暮らせばいいかすらわからないあたしを、担任の先生が救えるわけないでしょ。隣の席の男の子が助けてくれるわけないでしょ。
 だから、こうして話したのは初めてだった。
 口にして初めて、理解したことばかりだ。弟に言われたショックは、大きくてあまり考えたくなかった。ずっとずっと、あたしは父親に嫌われてたんだ。
 初めて、ちゃんと理解した。
 ああ、なんてバカな子なんだろう。

「あたしが……あたしのせいで、家族が壊れた……ああっ……あたしのせいだ……あたしが、あたしがいるからっ……ああぁっ!」

 あたしが悪い子だったせいだ。
 だから、壊れちゃうんだ。

「あたしなんて、生まれなければよかったのにっ!!!」

 実の父親にさえ、見捨てられたあたしは生まれるべきじゃなかったんだ。唯一愛してくれた母さえも不幸にしてしまった。
 あたしは、あたしは、生まれなければよかったんだ。
 消えてしまえばいいのに。
 あたしなんて、あたしなんて、消えてしまえばいいのに。
 理解できなかった幼い頃から耐えてきたあたしは、もう限界で、泣き叫んだ。

「うああぁああっ!!」

 叫んでも叫んでも、胸を苦しめるものは吐き出せなくって、涙は止まらなかった。

  ベロッ。

 いきなり湿ったものに顔を拭かれた。涙で歪む視界を瞬いてはっきりさせたら、目の前にはまだレオが座っている。彼は大きな舌であたしの涙を拭うようにベロリと顔に這わせた。
 口が、獣臭い。
 そこまでリアルにしなくてもいいじゃないか。なんて言えるわけもなく、ベロリとベロリとレオに舐め続けられた。

「ふえっ……ふええっ……うわあんっ!」

 あたしは泣き続けるのに、レオは舐めることを止めない。

「あたしはどこに、どこにいればいいの? どこに、どこに帰ればいいのっ? ふえっ、うわああんっ」

 あたしが逃げ込めるのは、階段の隅しかなくて、帰るべき家さえなくて、もうあたしは夢に閉じ込められてしまいたいとさえ願った。
 誰も教えてくれない。
 どこにいるべきなのか。
 どこに帰ればいいのか。
 教えてはくれなかった。
 レオは呆れたように息を吐いては、涙を舐め取ってくれた。


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