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1-2 ご先祖様は、こんな人たちだった

このマガジンは、今はなき「多賀坊人(たがぼうにん)」の一族の歴史と文化を調べた未発表の冊子を公開しています。
前回は、こちら


ダイジェスト・・・1-2 ご先祖様は、こんな人たちだった

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  • お墓の裏に彫ってあった文、笏の形の仏教でいう位牌の裏に書いてあった文、岩田家の過去帳、残してあった昔の戸籍、多賀大社叢書などからわかったファミリーヒストリー

  •  真行は結婚後、夫婦一緒に岩田家から三木家の養子になった。

  • 銀治郎の祖父と真行・秀久は兄弟っぽい。

  •  銀治郎は、その岩田家から真行の孫娘さだの婿養子になっている。

  • 坊人の家は、近江商人のように息子がいても娘に婿養子をとり、坊人の仕事に従事させていたようだ。

  • 妻は、甲賀 21 家もしくは坊人の家から嫁いでおり、岩田家を中心とする血縁・婚姻関係の「坊人組織」があった。

  • 少なくとも私から 8 代前、西暦 1600 年代中頃の祖先が判明。しかし、1/256のたった一人がわかったにすぎない。
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01 ●いよいよ本題へ。ご先祖様とは?

あれっ下書きと違う、お墓の文章 !

 真行のお墓の裏に彫ってあった内容は下書きより詳しく書いてあり、このお陰で全くわからなかった事が随分解明されました。
先祖の先見の目と、子孫に伝えるべき的確な内容に感服します。
内容は後ほど説明しますが、このお墓は真行が亡くなってから 50 年祭の時 ( 大正 2 年 9月 ) に、息子の淇内(私の曾祖父)と孫の謙吉(大叔父)が建てました。

下書き
お墓に書いてあった内容

02 ●更に発見 ! 真行の笏(しゃく)の裏にビッシリ文字 !

 仏教ではお位牌を仏壇に置きますが、神道では「霊璽、御霊代」を「祖霊舎、霊舎」にお納めします。
神道では先祖の御霊は守護神となり子孫を守るといわれているそうで、本家では霊舎に入りきらなくなっており、何とかせねばと扉をあけて中を見てみました。すると、「三木真行霊位」と書かれた笏(しゃく)の裏にお墓とは違う文が書かれていました。笏は、神職やお内裏様が持っている木の板です。

03 ●取り合えず、真行じいさんの人生を 現代語に無理やり訳してみよう

お墓や御霊代の裏に書いてあった文を合わせて、わかる範囲で今の言葉に変換してみます。

■ 亡くなった三木真行は、小さい頃は「藤吉」という名前

■ 文化八年 (1811 年 ) 一月一日明け方、甲賀郡小佐治で生まれる。

■ 父は真蔵院秀光、母は蒲生郡石原村海順の娘。
  〈これは、大発見 ! 真行より更に一代前がわかりました。〉

■ 真行は、岩田秀久の弟。

■ 少年の頃から ( 下書きでは青年 ) 京都「杉浦」で商業に従事していた。  【杉浦は大黒屋杉浦 ( 三郎兵衛 ) 商店か。江州高島出身の近江商人。1664年創業。日本でも有数の豪商と言える呉服店。石門心学を経営理念とした特色ある商家。現在日本橋にある 大三株式会社
〈淇内の長男 謙吉が、最初家業を継がずに伊藤忠に就職したのも、この前例があったからかも。〉

■ 25 才の時 ( 中年になり ) 故郷に戻り、兄の秀久と協力し、本業 ( 家業 ) に従事する為、髪を剃り ( お坊さんになる事 )、名を「真行」と改めた。

■ 天保 11 年 (1840 年 ) 隠岐村隠岐三位 ( お墓は三味 ) の三女と結婚 ( 真行29才。妻・勢ゑ19 才 )

■ 翌年の天保 12 年 (1841 年 ) 正?屋敷を相続して ( 小佐治村の三木家を継続する為 ) 三木姓をつぎ、そうして多賀別当不動院に従い「伊勢、伊賀、大和国」を担当し、拝札などを勤める。

■ お墓には、兄と一緒に多賀不動院に使僧として従事したとある。下書きでは「諸国にお札を配っていた」となっている。お札を配るだけではないという事で変更したのか。多賀不動院における使僧については後ほど説明。

■ 嘉永三年 (1850 年 ) 長女 志満、安政元年 (1854 年 ) 長男 悦藏 ( 後、淇内 ) 二人の子を得て、ますます本業に励み、家事保存の為に立派な働きをした。

■  元治元年 (1864 年 ) 9 月 9 日、明け方 ( 東の空が白む頃 ) 病死した。54歳。同年同月 11 日葬り、佛式をもって小佐治の大字向山、天台山 ( 中国でも比叡山でもない )・天台ケ墓所に埋葬。【お墓は文久元年 (1861 年 ) になっているが、これだと計算が合わない事もあり、亡くなった直後に書いた笏の方が正しいと判断】

■   尊称 ( 戒名 ) 権律師真行大法師 僧侶の位がついている。

■  しかし、仏式の位牌ではなく神主さんが使う笏が位牌 ( 御霊代 )。

■  仏教の戒名にあたるものに、「三木真行霊位」とある。「霊位」は神道?天台?

■  下書きと書き方が変わっているが、お墓には明治になってお役人さんに許可をもらって神式に変更したとある。

■   大正 2 年 (1913 年 )9 月、50年祭の時に小佐治にこのお墓を建てた。

■   犬上郡多賀村に住んでいる 跡継ぎは悦藏。改名 権少教正 ( 神道の教師の階級 ) 三木淇内と孫の謙吉が建てた。

■    真行の妻 勢ゑは、一緒にあった御霊代には「勢以」戸籍は「勢ゑ」
  ( 以は、い。ゑは、恵の崩し文字で、え )

色々な事がわかってきて、うれしいですが ご先祖の人生をこんな数行にしてしまっていいのかしらと複雑な気持ちではあります。

04●なんと ! 霊舎の奥に大国主命の御札が。

仏教における仏壇の神道版の霊舎の奥に
「幽明主宰 大国主大神」と書いたお札がありました。
「かくりごとしろしめす おおくにぬしのおおかみ」と読むそうです。

 大国主命を霊舎にお祀りする事が一般的な事なのかどうかもわかりませんので、直接 出雲大社に聞いてみましたが、要領を得ませんでした。

 真行が亡くなったのは、神仏分離前の江戸時代、明治維新直前。神社の僧侶だったとしたらあり得る事だと思いますが、一般的には葬儀は仏教、多賀大社においても神主が亡くなった時も仏教でお送りしていたそうで、神式によるお葬式が行われるようになったのは明治以降です。

 明治以降は、神式の葬儀の道具は「穢れ」の関係で、多賀大社に置いておけないという事で三銀蔵に預かっていた位なので、時代が変わったとはいえ、神様の御札を霊舎に一緒に入れるというのは一般的ではなかったように思えました。

 大国主命は、幽冥界を司る ( 主宰する ) 神様と考えられていると、その後わかりました。これは明治 14 年の祭神論争で出雲派が敗北して、公的には否定されたそうですが、現在も多くの神道系宗教で受け入れられており、もちろん江戸時代にはあり得た事だったようです。現在は伊邪那美の命が黄泉の国の主宰神という事になっています。

 これで御札の「幽明主宰」の意味がわかり、霊舎にご一緒にお祀りされているのは理にかなっているとわかりました。いったい何の論争だったのかわかりませんが、公的という事は当時の政府の意向という事ですね。深すぎる史実です。

05●謎が解明? !岩田家と三木家、そして隠岐家

三木家と岩田家のルート1とルート2は、共に同じ先祖を持つことは、わかっていましたが、小さなメモから どこでつながっているのかが判明しました。何でもかんでも捨ててはいけないですね。

読んで頂いている方には、実にわかりにくいので 先に結果の図を表示します。

「多賀神社 主典 岩田真造」は、銀次郎の祖父の甥

「銀治郎の祖父の甥」という事は、銀治郎の祖父・岩田嘉平と岩田真造 ( 蔵 )の親・秀久が兄弟という事になり、三木真行も兄弟じゃないですか !!
先の家系図の「赤い点線」が、描けたことになります。
このメモが正しいとすると、銀治郎とさだは、またいとこ同士で結婚した事になります。

近江商人と同じシステムか

 驚いた事に戸籍を見ると、銀治郎の母・婦さは三木傳七の長女。
更に三木真行の兄、秀久の長女 つまり真造 ( 蔵 ) の姉・幾久は二度結婚していて、夫は「真八」「真記」と「」の字がついています。岩田の戸籍に書いてあるので、婿養子のようです。

 大叔父の三木謙吉が、近江商人の代表のような伊藤忠・丸紅で要職についていた事がわかり調べた時に、近江商人は男子がいても娘に優秀な婿養子を迎えていると知りました。確かに、そちらの方が経営を持続していくには合理的です。ですので、女の子が生まれた方が喜ばれたとか。

 上の家系図の一番右を見て頂くとわかるのですが、私の祖父は四男です。通常の今の感覚ですと、4人も男子がいるのにどうして姉に婿養子を?という疑問がありましたが、解決です!

 多賀坊人独自の理由

 大正 12 年の多賀大社の坊人 ( 多賀講 ) の資料には、銀次郎同様、岩田家から他家へ婿養子に入ったと思われる河合氏や、佐治神社の宮司と同じ布知永氏の名も見られます。岩田家を中心に多賀大社にかかわる組織が血縁等によってつくられていた感じです。

 多賀講は、地域により担当が決められてはいたようですが、多賀大社からお給料がでるシステムではなく、自身で開拓し旦那を増やし独立採算制でしたので取り合いもあった事でしょう。自身の講の名簿は超極秘事項で、多賀大社も把握できないものでした。
つまり、信用できる人しか見せられない個人情報です。

 坊人であった私の母の実家は全く裕福ではなかったと聞いていたのに、お手伝いさん、下働きの人がいたと聞き「お譲さんじゃーん」と驚きましたが、講の仕事以外は他の方に任せて、繁忙期を乗り切り、親族で固める必要があったのだと推測します。男性は全国を回り長い間、家を空けることになるので、家を守る女性が要でもあったのではと思われます。

甲賀の三木家

甲賀の役所の土地台帳に淇内(きない)を発見しました。

サラッと書きましたが、すごい量の台帳から見つけたので、誰かに褒めて欲しい位です(笑)。知らなかったお墓や淇内屋敷の存在を知り、本家が存命のうちに、もし何かあれば片を付けなければとの思いもあり、念のため調べてみました。

田んぼですが、明治 28 年に荒地を開墾した土地です。
淇内は、戸籍上開墾して、すぐの 明治30年に多賀へ引っ越しています(詳しくは後ほど)
淇内→ 明治 31 年買得・三木竹治郎
→昭和 9 年 所有権移転 三木治一郎
→昭和 38年所有権移転 三木治右エ門 (淇内屋敷を案内して下さった治俊さんの父 )
他の小佐治の台帳には、三木治三郎→相続・竹次郎とあります。
やはり「治」が、ポイントですね。

治三郎さんが真行と同じ年代の親戚と思われます。
その他に、明治初期に三木源兵衛、三木市松、大正に東京霞町三木政吉という名が見られます。昭和 32 年三木幸雄氏が配置薬を事業化 ( 現京都・三木盛進堂 )

近辺で「三木」を調べると室町期に日野下迫に三木氏城があり、蒲生氏の支流とありましたが、関係は不明です。

多賀大社叢書にみる三木家と岩田家はセット

多賀大社叢書は、多賀大社に残っている文書をはじめ、関係する資料をまとめたシリーズなのですが、15冊位あって これも見ただけでゲンナリする位の量なのですが、その中に「岩田山戸(真造)」と「三木淇内」がセットで出てきます。従兄弟同志だという事が今回の調査でわかりました。同じ血が私にも流れているという事です。

又、詳しく書きますが、不動院付きの使僧という 重要なミッションもあったのではと想像できる担当地域です。近江、山城(京都)、伊勢、伊賀。早くから多賀講として活動していたのではと思われます。

隠岐家をはじめ、お嫁さんの実家は坊人や忍者の家柄

多賀大社叢書に 岩田真造隠岐勇三の親戚として出ています。
隠岐真行妻・勢ゑの実家です。隠岐村の隠岐さんなので、隠岐氏の末裔が、同じ坊人仲間だったのですね。
淇内の妻・知恵は油日村和田で配置薬 ( 置き薬 ) の家だったと親戚に聞きました。やはり坊人に関係する職業です。

隠岐氏も忍者と言われている甲賀二十一家で、隠岐城がありました。
どんなネットワークで動いていたのか、気になります。
「隠岐」という本が出てきました。写真がすばらしい本なのですが、きっと三木慎太郎あたりが、手に入れたのだと思います。

甲賀の隠岐と島根の隠岐の島。
鎌倉時代の初めに佐々木氏が平家討伐の功によって隠岐国の守護地頭になって「隠岐氏」を名乗ったとあり、同じ佐々木氏の尼子氏の家臣でもあったようです。古代 出雲 と 近江 沙沙貴山君(佐々木氏)の関係が、出雲口伝により伝えられている。結構 腑に落ちる内容なので いつか紹介します。

06●1600年半ばまでの家系図 1/256

岩田家ルート 1、2 と三木家の過去帳等々から拾い出して図にしてみました。私の場合 ( 淇久夫の孫 ) は、8 代前までわかったと言う事になりますが、両親に両親がいて・・・と考えると、8代前という事は256人のご先祖がいる事になります。その中の、たった一人のご先祖がわかっただけとも言えます。くぅ。

次回からは「三木家の家業・幻の多賀坊人とは」です。かなり、こってりです。


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