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多賀の古代史をさぐる個人的メモ  近江源氏佐々木氏のルーツに驚愕!

出雲王国のご子孫が口伝を元に、自ら出版社をつくり 世に出された本で 意図せず、驚きの内容。

なぜ、読むことになったか

  1. 御霊代に「幽明主宰大國主大神」・・・出雲との関係は?
    私の母方の先祖は、甲賀21家(忍びとも言われている) 佐治氏の氏神の社僧と多賀坊人の一族で、明治維新後は修験者から多賀大社の神職を務めたので、もちろん本家には、多賀大社の御祭神 伊邪那岐大神が祀ってありますが、神道における仏壇「祖霊舎(それいしゃ)」をあけてみると、先祖の御霊代(みたましろ・仏教の位牌)の真ん中に、ドーンと大国主大神がお祀りしていました。

2.地域には、大国主や少彦名
鈴鹿山脈にある古民家の解体などに立ち会うと、伊邪那岐大神や天照大御神ではなく、大国主と習合した「大黒様」が祀られていることが多く、近くの大瀧神社は昔、大己貴神(大国主の別名とされる)の国だったとの文書があり、何より多賀町佐目の十二相神社の御祭神が、共に国土を作ったという「少彦名命」であること

3.三木本家は、元 車戸邸。車戸氏は、クナド神の関係と。多賀大社の社家。ずっと要職に。大禰宜(今の権宮司的な) 
多賀大社の摂社 山田神社と関係か
祭神 猿田彦大神 延喜式内 山田神社一座とある。
意味がある神社だが、案外おざなり。
昔は、多賀大社に八咫烏神社があったが 今はない。
いつ、消されたのか。
多賀大社には、ずっと八咫烏の信仰があり、今も御鳥喰神事が行われている。
戦前には、多賀大社の絵葉書には カラスが飛んでいたのに 戦後はなくなる。なぜ?

今まで、点々と 疑問に思っていた事の いくつかが 思いもよらず 腑に落ちることになりましたが とりあえず まとめられないので 個人的メモ 参考として。

沙沙貴山君(佐々木氏)のルーツ

まず、ここで取り上げるのは、沙沙貴山君。
宇多源(近江)源氏 佐々木氏が、同じ氏族だとは思えずにいたのですが、沙沙貴神社社家と 佐々木荘の下司職であった源成頼の婚姻により、両家の歴史が合体したとある。

「佐々木氏」は、源雅信の子・源扶義(参議、大蔵卿、正三位、公卿、一条天皇の九卿の一人)が、近江国蒲生郡佐々木庄を賜り、 佐々木の庄の領主となったことから、その子である源扶義の長男・源成頼(宇多天皇玄孫、鎮守府将軍、正三位、左京太夫近江守)が近江守となり、成頼の嫡男・源章経(佐々木義経)(源太夫、従五位下、左近将監、佐々木氏の祖、弓馬を嗜む)が近江国佐々木庄に下向し、佐々木姓を名乗り、住み始めたことに始まるとされる。

とりあえず、近江には佐々木氏をルーツにする氏族も多く、ネットにはあまり出ていないので、かなりややこしいルーツを お伝えしたいと思います。あくまでも口伝ですので、本当かどうかはご自身で判断して下さい。

太古縄文時代に、古代インド ドラビダ族のクナト王一族が、ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を下って、津軽半島に上陸した後、出雲に住み着いた。

二王制で クナト王直系の向王家と神門臣家が 主王と副王を交代でつとめ、イズモ王国を運営していた。

主王 大名持(オオナモチ) 副王 少名彦(スクナヒコ ) は、役職名。つまり社長、副社長のようなもので 何人もいるという事。大己貴、大国主等々、多くの別名がある。

出雲東 向家は、富家とも言われ、西出雲 神門臣家は 郷戸家とも言われる。

初代 主王 大名持は 富家の八箇耳王。

8代 主王 大名持は 郷戸家 八千矛(大国主)   
8代 副王 少名彦は  富家  八重波津身(事代主・個人名)
  事代主に摂津三島(高槻市)から、三島溝喰の娘 セヤダタラ姫が輿入れ
  (セヤダラタラ姫のご子孫は、事代主が婿入りと 。詳しくは『ヤタガラスの娘』をご覧ください)

紀元前3世紀 徐福現る

徐福がくる一年前に ホヒと息子の武ヒナドリが秦からやってきて、
8代 主王 大名持 郷戸家(西出雲)  八千矛(大国主)に仕え、
徐福は、大国主と多岐津姫の娘、高照姫を妻として迎え、五十猛が生まれる。

主福両国王 ホヒ家に騙され殺される(後、のっとられる)

徐福がつれてきた海童にやられる。
亡くなった副王 少彦名 事代主の出雲東の分家の半分の人々は、妻のセヤダタラ姫の摂津三島の協力をえて ヤマト(奈良)に移住

大国主(西出雲)と徐福の子、五十猛は 丹波に移住 海部(アマベ)王朝となる
3代続いて、東出雲 富家(登美家) から妃 → イズモ系 磯城(しき)王朝 となる

二回目に来日した徐福は和名 火明櫛玉 饒速日尊と名乗り、筑後吉野ケ里に住み 子孫は「物部」

徐福の次男家の物部 筑後から 紀伊国熊野の磯城(しき)王朝を攻めたので 
磯城(しき)王朝のフトニ(孝霊)は、吉備に逃げ、その息子キビツ彦が同じ東出雲攻め 銅鐸をつぶしまくり フトニ(孝霊)は大山に住み着きなくなる。

磯城(しき)王朝のクニクル(孝元)大王の御子 大彦が破れ 摂津三島から琵琶湖東岸へ。その子が 狭狭城山君 登美家・富家(東出雲)の血が濃い
クニクル(孝元)大王は、サイノカミ信仰を広げ 北陸へ

大彦は、四道将軍の一人

本家では、四隅突出墳 

物部が出雲を攻めるというので、大彦には 「富」を名乗らないようにと本家から通告
クニクル(孝元)大王の御子 彦フツオシノマコトと 西出雲 神門臣家 紀伊国造の娘 が結婚し その息子が 武内大田根 

狭狭城山君と彦フツオシノマコトは兄弟 武内宿祢大田根は 甥 3世紀
額田は武内宿祢大田根と兄弟 

筑紫平野 物部イニエ王 阿多津姫(コノハナサクヤ姫)
磯城(しき)王朝を倒しに大和へ

武内宿祢大田根 宿祢は物部の起源のあかし
額田と共に ヤマト磯城(しき)王朝に鞍替え 三角縁神獣鏡を

ホヒ家 物部に密告

東出雲王 17代目少名彦 大田彦 出雲軍解散 松江の熊野に 
始祖のクナト大神と 祖先 事代主を祀る これが 熊野大社

登美家のヤマト姫 五十鈴宮 西出雲 向王家の血 
 彦道之斯大王 和邇(天理市) 都

物部イクメ王 垂仁を名乗る 
磯城(しき)王朝 富家→野見宿祢
ヒボコにころされる

菅原道真は のみすくね 磯城(しき)王朝の子孫

旧出雲両王家 ホヒ家をけん制 「財筋(たからすじ)」秘密組織
ホヒ家が出雲神話をつくり 出雲国司に頼んで 記紀を書かせた

武内宿祢 蘇我氏 を助けた向家 方墳 出雲王国の印
物部王朝(イクメ垂仁) は 近畿だけ オオタラシ彦(景行天皇) 先祖の地 九州  四道派遣は 作り話。逃げた
オオタラシ(大垂) 九州 東国 に遠征 これが ヤマトタケルの武勇伝に
出雲軍は 豊国出身を攻撃 関東におちつく

各国によ移住 「散自出雲」 結束 連絡 秘密情報組織

クナト神をイザナギ さびめ大神 イザナミ 

大彦の子孫 東国に強力な王国 阿部氏 大彦にナガスネヒコという架空の名前 
源成頼 が  佐々木荘の下司職になり 神社社家と婚姻し 親族になる
佐々木義清 イズモ 隠岐の守護に 塩治氏に
尼子氏 忍者をやとい





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