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「自明」の共有不可能性と例え話

 自明と思われ、わざわざ言語化していないことが案外と私だけの独自であり開陳の余地があるものであったりする。最近そのことを強く感じる。




 例えば、研究対象。

 抽象的なテーマの具体例として取り上げた事象、何がそれそのものであるかは言葉を尽くして述べる必要がある。「これについて論じます」と言うとき、「これ」の中心的な要素としてイメージするものは人によって異なる可能性が高い。ここがずれていると「そうは言えないんじゃないか」「その程度なら他のものにだって言えるのではないか」などど言われてしまう。私は「これ」の中のどこを何と思って扱うのか。それは自明ではない。



 例えば、人の話の内容。

 他者の話を聞くとき、「私はあなたの話をこう解釈しました」と述べることはレスポンスとして有効である。研究発表やプレゼンの場において、全くの専門外にもかかわらずリスナーとして発言しないわけにはいかないときがある。そういうとき、「これってこういう話でしたよね」と言うのは有益たり得る。もし自分の理解が間違っていたとしてもそれを言うことで正してもらえるし、言われたスピーカーも自身の論法を見直す切欠とできる。もちろんこれだけでは発言内容として薄いものになってしまうが、何も言えないよりはこの程度でも言うべきと考えたい。



 以上は翻って、「自明」の共有不可能性を示している。私があたりまえに物事の前提としていることは、他人にとってはあたりまえでないかもしれない。少なくとも言葉にして確認する余地はある。そうするだけで論考は丁寧なものとなり、文章は嵩増しされ、議論は整備される。

 しかし、ここで問題となるのは「言葉」という前提すら「自明」ではあり得ないということである。言葉の意味は常に概念的広がりを持っており、今この場ではその広がりの中でどこを切り出して利用するか、という定義が求められる。

 これは大抵、言葉を重ねることで対処される。異なる方向にそれぞれの広がりを持つ個々の言葉を重ね、その重なりの濃い部分を掬い上げてその場の「意味」とするのである。



 ここに述べたのはいかに丁寧に確実に他者と「自明」を共有するかということだが、こうしたメカニズムを逆方向に利用すると、人を簡単に「わかった気」にさせることができる。

 やり方は簡単である。例え話だ。

 例え話とは聞き手に内在するイメージを利用する話法である。話し手の想定するイメージを伝えるのではなく、聞き手の記憶から話題に合致しそうなものを引き出し、それをその場の「意味」とする。しかし、聞き手と話し手それぞれがその場で想定するイメージの中心的な要素が全くの同一であることはあり得ない。なぜなら、人はそれぞれ意味的に異なる経験を重ねて生きているからである。他人どうしが現象から解釈まで全く同じ経験を共有することはあり得ない。

 だが、だからこそ例え話は人を強く納得させる。人は「自明」を共有できない他者の言葉よりも己の内のイメージの方が身近に感じるものである。これを利用し、相手に自分の内から「意味」を発見させるのが例え話である。例え話のわかりやすさは、「自明」の共有不可能性の上に成り立っている。

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