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目にみえないもの

以前職場にいた少し年上の同僚が、私物のスマホをこっそり社内で充電していた。
彼女の言い分は「趣味で意気投合した職場の先輩女性の家に昨日お泊まりしたので、その家で充電するのは悪いと思った。だから今充電してる」ということだった。
私はけっこうひいた。毎日スマホの充電をすることはそんなに珍しいことじゃないのだから泊まりを了承した時点で1回分の充電ぐらい了解してくれるだろう…そんなことに気を遣う相手の家によく泊まれるな(災害などで帰宅できなくなってやむを得ずという訳でもなく意気投合で泊まったようだし)…そこまで気にするならモバイルバッテリーを使えばとか先輩の家では遠慮して社内は自分の家のような気分なのかとかその彼女への違和感でいっぱいになり関わりたくない気分になった。私はモバイルバッテリーを持っていたが彼女は探してもいなかったし「あの子のモバイルバッテリー使ってから充電の減りが速い」とか「あの子にモバイルバッテリーかりてからスマホの調子がおかしい」とかどこまで本気かわからないことを平気で言い続けそうな印象の人だったのでこちらからは申し出なかった。
幸い、彼女は私がさりげなく注意しても耳に入らなかった前例が沢山あったので、私は見なかったことにして何も言わず判断は恐い先輩や厳しい上司に任せようと放っておくことにした。職場で私物を充電することは決して推奨されることではないし、コンピューター機器の近くで電源をいじったり私物を置いておくのは職場の電子機器に不調がでた際に真っ先に疑われる場合が多いから触らない人のほうが多数派だけれど、彼女は自分の目先の利益を優先するタイプだったようだ。
仕事などでさまざまな人と関わると、独自の価値観に触れることも多くある。私は、相手の都合も考えずに絡んだり他人に頼んで時間を使わせたり(それが浪費かどうかは実行する人にしかわからないことだから)何かしてもらうことを軽視する人を図々しいと感じる傾向にあるが、彼女の場合は金額が目にみえるとか価格がはっきりしているものを重視するのかもしれない。使用料が発生すると明確にわかるとか過去に実感したことだけ注意深くなるのだろうか。
価格が不明瞭な他人の時間に押しかけたり邪魔したり自分以外の労力を躊躇なく使うのは彼らにとってはごく自然なことで、何かにお金がかかるルールが明記されているときはどんなに小額でも慎重になる。いろんな人がいるのだから、自分が常識だと信じていることに馴染みすぎてどこでも通用するはずと思い込むのは危険かも…
そのような思いから、日常の自分と離れた立ち位置で物事を捉える目を持っておきたくて私は近年混沌とした詩をかいている部分もある気がする。日常で連日めまぐるしく大勢の方と交流できるほど器用ではないが、多様な考え方があることは忘れないようにしたいというところなのかもしれない。

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