さぼ子さん その3
連載ファンタジー小説
三 なにかおかしい
塾が終ったのは、午後八時半。
この時間になると、さすがに外はまっくらだ。
ぼくは、ビルとビルの間をぬって商店街まで走った。バスを降りてジャスト十六分、商店街の入り口に到着。水銀灯が、人っ子一人いない歩道を照らしている。
十時まで開いていた黄金湯が、八時に店を閉めるようになったのは五年前。ぼくが塾から帰ってくる時間には、商店街のシャッターは全部降ろされ、歩く人もいなくなってしまう。
いつもだったらバス停から家までノンストップで走るのに、この日ぼくは商店街に入ると、すぐに立ち止まってしまった。
なんかおかしい。そう、なんだかいつもとちがうような気がする。
どこがってうまくいえないけれど、なんだかちがうんだ。
なにが?どこが?しばらく考える。・・・わからないよ。
この時、先週やった郊外授業を思い出した。
学校の近くの雑木林にみんなで行って、ここで担任の鈴木先生がこう言ったんだ。
「目を閉じて、ゆっくり深呼吸をするんだ。そして自分の持っている感覚をとぎすましてごらん。ほら、いろんな音が聞こえるし、かすかな匂いも感じることができるだろ?人間っていうのはね、体の中に高性能なアンテナを持っているんだよ」
ちょっとこわかったけれど、ぼくはその場で目を閉じてみた。そして体の中のアンテナを立てる。
何か聞こえるか?感じるか?授業の時と同じように、最初は何も聞こえなかったし、なにも感じなかった。でも、そのまま目を閉じて深呼吸をしていると、耳のおくでキーンという音が聞こえてきた。
それも一つのトーンだけじゃなくって、高い音、低い音、いろんな音が交差するみたいにひびいている。
なんだよ、これ? ぼくは、耳のおくで聞こえるふしぎな音の正体を、じっとさぐっていた。
すると、かすかになにか匂ってきた。玄じいちゃんが作ったあの悪魔の薬のような匂いなんかじゃない。もっと甘い匂いだ。
鼻に意識を集中していると、なぜだかものすごくゆかいな気持ちになってきて、ひとりでに顔が笑っていた。
すると、とつぜん
「琢磨、そんなところでなにやってるんだ?」
とだれかに呼ばれ、目を開けたしゅんかん、あの匂いも、音も、そしてゆかいな気持ちもすぅーと消えてしまった。
「おい、なに笑ってるんだ?」
畳屋『玄』の半分開いたシャッターの前に卓也が立っていた。
「えっ?うん、べつに。それより、おまえのほうこそ、なにやってるんだ?」
「じいさんが、またあの薬を作りはじめたからさ、くさくって家の中なんかにいられないんだ」
シャッターの下から、きょうれつな匂いがもれてくる。でもこれは、さっきまでのあの匂いとはちがった。
「なあ卓也、今、なにか匂わなかった?」
「あのさぁ、こんなひどいのが匂わないわけないだろ?」
「ちがうよ。こんなのじゃなくって、もっと甘い匂いだよ」
「もっと甘い匂いって、どんな?」
「どんなって・・、えーっと花みたいな・・、でもそれとはちょっとちがうような・・」
「なんだよ、それ?それじゃあ全然わかんないだろ」
「うまく言えないんだ」
「オレがかいだのは、あの悪魔の匂いだけだって」
おかしいなぁ?
「じゃあさ、音は聞こえた?」
「今度は音?おまえさぁ、ほんとおかしいって」
「おかしくてもいいから、なぁキーンっていう音が聞こえたよな?」
「キーンって、ジェット機が飛んでいくような音のことか?」
「ううん、そんなのとはちがう。いろんなキーンがあって・・」
あの音をうまくいいあらわすのは、むずかしい。
「ああもうっ、オレが聞いたのは、車の音だけ。だ・か・ら、キーンっていう変な音は知らない。これでいいか?」
あの匂いもキーンっていう音も知らない?どうして?
ぼくは、卓也のうしろにずっとのびた商店街を見た。ここはぼくがいつも遊んでいる場所だ。
でも・・、背中がゾクゾクッっとした。
「なぁ、さっきから音とか匂いとかって、おまえ、いったいどうしちゃったわけ?塾でしぼられすぎたのか?」
卓也は、気づいてない。
「もういいよっ。じゃあな」
ぼくは卓也の横を通りぬけ、四軒先にある自分の家まで走った。
持っていたカギでそっと事務所の戸を開けたしゅんかん、ふわっと甘い匂いがただよってきた。
これは・・、さっきのあの匂いだ。どこから?匂いの元をたどろうと鼻をクンクンさせる。
あれっ、なんだか口元がゆるんできた。
「琢磨、おかえり。早くお風呂に入りなさい」
二階のおどり場から、母さんの声が聞こえたその瞬間、匂いがプツンと切れた。さっきと同じだ。
「琢磨、早くお風呂に入りなさいっていってるでしょっ」
また卓也と同じことをいわれそうだけれど、聞かずにいられない。
「母さん、なにか匂うだろ?」
母さんがくすっと笑った。
「まだ匂う?これでもずいぶんうすくなったのよ」
「ねえ、これってどこからするの?」
「なに言ってるの?その箱の中からに決まってるでしょ」
母さんは、ぼくの足元を指さした。玄じいちゃんの薬が入っている例の箱だ。
「ちがうよ、これじゃあなくって・・・」
と言いかけたけど、やめた。母さんも、あの匂いに気づかないんだ。
「ほら、カバンを片づけて、早くお風呂に入りなさい」
階段をかけ上がって、ぼくはおどり場の定位置にもどっていたさぼ子さんの幹をトントンとたたいた。
小さい頃から、いつもこうやって、さぼ子さんにただいまのあいさつをしてきたんだ。
ディバックを机の上において、パジャマをだして、風呂場に直行。
と、その前にテレビに釘づけになっている聖子の手からチョコアイスを一つちょうだいした。
「あっ、ドロボー」
へへへ、いただきーっと、袋からチョコアイスを出して、口に入れようとした瞬間、またあの匂いがした。
アイス?ううん、これチョコミントだからちがう。聖子か?洗面所を出て、聖子の所にもどる。
「もう、あげないからっ」
アイスの袋をぎゅっとにぎりしめている聖子の横にいき、鼻をくんくんさせた。
「いやだっ、お兄ちゃん、なにしてるの?あっちにいってよ」
ちがう、聖子じゃない。じゃあ、どこから?
アイスの袋を開けた時に匂ったんだよな?だったら・・・、手?そうだ、手だ。鼻先に右手を持っていくと、かすかにあの甘い匂いが残っていた。これって・・・?
「琢磨、もう風呂から出たのか?」
じっちゃんが、リビングに入ってきた。その手に持っていたのは・・・。わかった!
「じっちゃん、どいて」
例の薬をもってドアの前に立っていたじっちゃんをおしのけて部屋を出た。目ざすものは、目の前にある。
「さぼ子さん」
さぼ子さんに鼻を近づけてみる。でもそのさぼ子さんからは、植物の青臭い匂いしかしない。
次は、さっきと同じように軽くたたいてから、手の匂いをかいでみた。やっぱりだめだ。
さぼ子さんじゃなかったのか?
「おい琢磨、さぼ子さんが、どうかしたのか?」
リビングから、じっちゃんが顔を出した。
「ううん、なんでもない」
もう、わけがわかんない。
洗面所にもどって、もう一度だけ手の匂いをかいでみたけれども、もうしない。
あの音、匂い、どうしてあんなに笑えてきたんだ?考えれば考えるほどわからないよ。
これ以上湯舟の中にいると頭がオーバーヒートしそうなので、お風呂から出て体をふいていたら、脱衣所の外で父さんと母さんが声をひそめて何かを話している声が聞こえた。
「夕方健一が店に来て、黄金湯は、八月いっぱいで店をたたむって言ったんだ」
「やっぱり・・。黄金湯さんのところ、そのあとどうするんですか?」
「なんか伊井田で知り合いが鉄工所をやってるから、そこでやとってもらえるように頼んでみるって言ってたけど、このご時世だから・・ふぅ、この二年で、十以上の店が閉店しちゃったなぁ」
こっちまで落ちこみそうな父さんのため息が聞こえた。
「商店街にまた活気がもどりさえすればねぇ。なんとかならないのかしら・・」
「ここまできてしまったら、もうどうにもならないだろう」
母さんも父さんに負けないほど大きなため息をついてから、リビングに入っていった。
どうにもならないだって? 鈴ばあちゃんも咲も、ここに残っていたいんだよ。それなのに、どうにもならないってひとことであきらめちゃうわけ?
方法はともかく、あんなとしよりのじいちゃんたちだって、この商店街をなんとかしようとがんばっているのに、父さんたちって根性なさすぎだよ。
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