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紀伊半島を巡る親子3人春休みの旅

3月下旬。冬の厳しさが去り長野県も春らしくなってきたとはいえ、朝の伊那谷には冷たい風が吹き荒れ宿場町を散策する私たちの体を縮ませた。朝早いこともありほとんどの商店は店を閉めたままだ。

一軒だけ開いていた店で、五平餅とほうじ茶を買う。4歳の娘がうまそうに五平餅を食べる姿がかわいい。

娘はチャンスがあればいつでも私の膝の上を占領する。最初の頃、6歳の息子は妹のこの行動を羨ましがった。しかし、他者の影響によって生まれた羨ましさという感情が「ただそうしたい」という純粋な欲求を超えて行動に影響を与えることはない。そういうわけで娘の強靭なしつこさは私の膝の上を絶対的領域として確保した。

娘が五平餅を食って満足すると、その五平餅は息子に渡り、2人の間でシェアされる。そうして息子と娘の間で五平餅が何ターンかした時、息子が「あ、歯が抜けた」といって小さな歯を見せた。餅の粘度によって歯が抜けたようだった。店の店主がそれを見て「下の歯が抜けたんなら屋根に投げないとね」と古い言い伝えを語った。私もまだ幼かった頃、母親が同じことを言っていたのを思い出した。

伊那谷を抜け、岐阜に入る手前の町外れの公園で昼食をとる。桜がちょうど見頃を迎えている時期で、海外からの旅行者が目立った。

私たちが食事をとっていると、ひどく腰を曲がらせた老婆が1人近づいてきた。老婆を見た息子はなぜかその場から逃げ出した。後で話を聞くと、絵本で見たシンデレラに出てくる毒林檎の老婆とイメージが重なってしまったと言った。

息子が戻ってくると、老婆はバッグから饅頭の袋を取り出し、娘の頭の上に「福」と書かれた饅頭を乗せてからその饅頭を娘の手に乗せた。次に息子の頭に饅頭を乗せ、それから最後に私の頭に饅頭を乗せた。老婆の儀式は私たちを明るい気持ちに導き、旅の始まりを祝っているようにも見えた。きっと彼女は自分の子供達にも同じ儀式をしていたのだろう。いや、明らかに中年と分かる私の頭にも饅頭を乗せたのを考えると、きっと今も継続しているのかもしれない。なんと素敵な儀式なのだろう。

公園を後に車を走らせていると子供たちが「おばあちゃん優しかったね」と出会いを喜んだ。

伊那谷を貫く伊那街道は歴史が深い。1600年から栄えた街道は関所が少なく武家の行き来もわずかだった。そのため旅人や商人の往来が盛んだったという。そういった歴史的な背景を持つ場所のため海外からの旅行者が多い。それに加えて地元の住人の気質も明るい。ある意味、400年以上続く街道の文化が老婆の儀式を生んだといっても良いのかもしれない。

人混みを避けようと深夜のうちに名古屋の市街地を抜けている最中に疲れ果てて車中泊。

翌日、午前中いっぱいをかけて紀伊半島に入り、浜沿いにあるキャンプ場にテントを設営した。

地元の役場が管理している比較的安価な(この地域の中では)キャンプサイトで、オフシーズンということもあり他にキャンパーも見当たらず、我々にとっては都合が良かった。4歳の娘は人生で初めてだという焚き火を楽しみにしていた。(と言っても彼女の記憶に残っていないだけで実は何度も経験している)3人で夕食を作った後は、私も娘と一緒に、彼女にとって(自称)人生初となる焚き火を楽しんだ。

翌朝、キャンプサイトの近くに2時間ほどで歩ける熊野古道があることを知り、冷たい風に混じって小雨が降る中ハイキングを楽しんだ。時々、娘の気分によって抱きかかえる必要があったが、以前は全く自分で歩こうとしなかったのを考えると著しい成長だ。この熊野古道ハイキングをきっかけにその始点と終点を巡ってみようと翌日は伊勢神宮、その次の日は熊野本宮大社に参拝した。

そしてこの2日間、風は強く吹き荒れた。

伊勢神宮から戻ってきた日、私たちの設営したテントは裏返しになったまま風にさらされていた。椅子、テーブル、マットなど、ほとんどの物があちこちに吹き飛ばされて悲惨な有様だった。子供たちは「あーあー」と言いながらも、この状況をどこか楽しんでいる。

海で一刻も早く釣りがしたい息子を説得して現場の復旧を急いだ。海の向こうに黒々とした雲の塊、それに反応するように周囲の山々の奥から重苦しいグレーの雲が湧き上がる。それらが雨に変わる前に、より強靭なペグを打ち込んでテントを設置し直したい。

息子と娘は周辺に散らばった椅子やテーブルを戻し、私はテントを地面に止めるペグを何本も打ち足した。30分ほどで現場復旧は終わり、それと入れ替わるように土砂降りが襲った。急いで車に逃げ込み夕食を作る。外は大雨。時々強風に煽られて車は揺れる。車中でブリの照り焼きを作りながら白米を炊く。開けた窓から新鮮な空気が雨の湿気を連れてくる。食物の湯気と外の風雨が混じり合う。そんな状況の中、熱々の白米とブリの力強い脂を掻き込んでいるとなんだか物凄く逞しくなったような気がするのだ。きっとまだ幼い子供たちも同じように感じているに違いないと思いながら、私は1人熱燗を飲んだ。

夜になると風は収まり、星空もよく見えた。

熊野本宮参拝から戻り、晴れ間が広がったのを見計らって釣りをする。テトラポッドに張り付いた牡蠣を餌に1時間ほど釣りをして、子供たちが飽きてしまった頃に私がカサゴを一匹釣り上げた。息子は私が釣ったことを羨ましがったが、釣り上げるまでの待つ時間があまりに退屈だったようで急速に釣りから興味を失っていった。その一方で、私がカサゴを捌くのには興味を持った。死が犠牲となって食物へと変化する流れに興味が生まれるのはある種の本能なのかもしれない。

キャンプ場に宿泊する客は私たちだけだったが、他にもう1人の客がいた。私と同じぐらいの年齢の男性で、彼は朝から陽が暮れるまでキャンプ場と浜に落ちている細かい流木や枯れた葦を集めているようだった。

男性は目を合わせることなく私のそばを通り、挨拶をしても返答はなく、表情に変化もない。キャンプ場受付の際に市の職員は「管理人はいない」と言っていたので部外者だろう。私は自然とその男性に警戒心を覚えた。

私は2010年からカンボジアでNPO活動に従事している。活動は大まかに子供たちの支援だ。その活動拠点の60キロ先には人身売買組織のテリトリーもある。ある日突然子供がいなくなることもカンボジアでは珍しくない。そして私自身も日本人と言うことなのだろう、金目当ての不審者に出くわすことが少なからずあった。その経験が私に、この男を警戒せよと警鐘を鳴らしていた。海外での活動とクライミングで培ったリスクマネジメント能力は高い防衛力を発揮する。私は子供たちと男性との距離に注意を払いつつ、緊急時には物理的な防衛手段に出るイメージを作っていた。

ある日の午後、その男性が集めた細かな流木の山から息子が焚き火用にと両手一杯に流木を抱えて私たちのテントがある場所まで運んできた。その様子を男性が遠くで見ていた。私は息子に言った。「それはあのおじさんが集めたのだから止めたら?」すると息子は「じゃあ聞いてくる!」と言って男性に向かって走っていった。私は息子の後を追いながら男性の一挙手一投足に警戒を払った。息子と男性の体格差を考えると素手でも致命傷だ。私は全身に緊張が走るのを感じた。まるでカンボジアの危険地域にいる時のように。

息子は男性と少しの間やり取りをすると、すぐ戻ってきて「持ってっても良いって!」と言ってさらに豪快に流木の山から薪を運んだ。しばらくして男性は流木を一輪車に積み込んで私たちがいるテントサイトにやってきた。そうして一輪車の中からいくつかの流木をその場に置いて無言で去った。

次の日の朝、チェックアウトのためキャンプ場を去る準備をしていると、一輪車に流木を積んだ男性が近づいてきた。そうして男性は少ない身体動作と無表情のまま、自分のことをたくさん喋った。趣味で流木を集めていること。集めること自体が趣味なので流木はそのまま廃棄すること。地元に住んでいること。私より歳が一つ若いこと。雨が多いこと。それらを淡々と語り、満足そうにして去っていった。

私の警戒をよそに子供たちは自分のペースで世界を広げていく。先入観もない。たとえあったとしても、大してあてにならないことも知っている。腰を曲げた老婆が全員毒入りりんごを持っているわけではないのだ。

人間は大人になればなるほど偏った先入観をもつ。この時の私のように。そして時にそれを子供に強要する。私はキャンプ場の男性を警戒した。それは私の経験がそうさせるのだ。私の役割は子供たちを守ることで、子供たちに先入観を植え付けることではない。「あのひとは悪い人だ」というように。子供は純粋に物事を判断し、その判断は多くの場合正しく子供たち自身を明るい未来へと導く。しかし皮肉なことに、それを邪魔するのが大人の先入観であることが多い。それは規律と正義をもって。あるいは正しい教育として。時に、あまりにもあっさりと子供から大切な何かを奪い去っていく。

私は子供たちの父ではあるが1年ほど前に離婚したため一緒に住んではいない。離婚の理由は単純だ。私は自由に重きを置き、前妻は規律に重きを置いた。子供が産まれてから夫婦の距離は加速度的に乖離し、その抗い難い力は1つの家庭を破壊した。調停は母親優先の原則に基づき「帰りたくない」という子供たちの言葉は調停員に届くことなく終わった。もう涙を流すことはなくなったが、それは子供たちが「抵抗しても無駄」という1つの圧力を受け入れた結果に過ぎない。

私は子供たちの選択の自由を強く望んでいるが、規律と正義の前で私の言葉はあまりにも弱い。そんな中で仲間の協力もあって可能となった今回の旅だった。この旅には明確な終わりがある。私はそのことを大きな痛みとして知っていた。

そのキャンプ場でもう1つ明るい気付きがあった。それは「いただきます」を子供たちが知ってくれたことだ。

熊野本宮参拝の際、なぜこんなにたくさんの神様がいるのかと子供たちは不思議がった。そこで、神道の歴史に詳しくない私は自分の中にある感覚を話した。

私は人生の大半を自然の中で過ごす。キャンプのようにただ居る状態も多いが、クライミングやサーフィンのように深くその懐に入り込むことも多い。その時、自然から意志のようなものを感じる。岩、海、空、川だけではなく、土や石や草花まで。それらが発する「意志」が、私の感じる八百万の神だと言った。私の「いただきます」は、作った人への感謝もあるが、どちらかと言えば私の一部と自然の一部とのつながりに祈りを込めるような感覚に近い。

熊野本宮から戻り、カサゴを釣り上げ絶命させ食卓に出す全ての行程を見ていた子供たちはこの時はじめて自分から「いただきます」と言って食事を始めた。私は神々について私の感じる感覚を子供たちに話し、そうして一匹の魚の命を奪った。そのことが子供たちに「いただきます」の意味を与えてくれたのだろう。

キャンプ場を後にした私たちは熊野を目指した。雨はもう3日も降り続いていた。

熊野ではゲストハウスに滞在することにした。私は少しの仕事を部屋でこなし、その間子供たちはゲストハウスのオーナーとスーパーファミコンを楽しんだ。食後には子供たちと人生ゲームで遊ぶ。キャンプと車中泊を続けてきた私たちにとって家のありがたみは大きい。そしてゲストハウスではたくさんの出会いに恵まれた。

小雨のタイミングで日本最古と言われる花窟神社に行ってみるとテレビ番組の収録に遭遇した。大人2人がスイカを模したヘルメットをかぶって雨の中バイクで走っている様子はよく目立った。私は家にテレビが無いので番組の詳しい内容は知らない。息子はいち早く気付いて「あ、テレビの人だ」と言った。それからテレビ番組のスタッフに頼まれ「テレビに映っても良い」という承諾書のようなものにサインをして神社を後にした。

次の日、同じゲストハウスで出会ったアメリカ人男性の招待で、古民家再生プロジェクトの現場を見学させてもらった。古民家を改良して学校を作り環境教育をやりたいという男性はエネルギーに溢れていた。私はその男性を見ながら、14年前、カンボジアのシェムリアプにクライミングウォールを建てていた頃を思い出していた。14年経った今、私のイノベーションの熱は冷め、こうして平和を求めて子供たちと旅をしている。

熊野の町を見下ろせる丘の上にその現場はあった。車で走るには恐怖を感じるほどの狭く急峻な舗装路を登ると小さな古民家があり、プロジェクトに関わるスタッフが家屋の中を忙しく走り回りながら作業をしていた。

私と子供たちは男性の案内で畑を見て回った。細かく区画された畑は山の斜面に張り付くようにして春の実りを待っている。

集落が小雨と霧に霞んだ海を見下ろす。その景観がかつて旅をしたネパールの山岳地帯にある町ナムチェバザールに似ていて、懐かしく思い出した。「高齢者が多いのに道が狭過ぎて救急車が通れなかったが、最近になって道路拡張が予算に盛り込まれ改善されようとしているので嬉しい」と男性は語った。

ネパールに話を戻すと、ナムチェバザールには車道はなく、やや広めの歩道を人間や家畜が賑やかに往来している。私と男性の使う言語が英語ということもあり、私にはやはりそこが、どこか遠くの国の山岳地帯にある小さな村に見えた。

男性に別れを告げ、旅を終える時が来た。私は長野へ。子供たちは別の場所へと帰る。

別れのイメージが強い帰路に思われたその道中「もう一泊できることになった。ゆっくりしておいで」と仲間から連絡が入った。私の想いをくんで水面下で日程の調整をしてくれていたようだった。

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