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やる気と脱力

子供クライミングクラブというプラットフォームを作って午後6時から8時の間、子供たちが自由に遊べる時間を佐久クライミングセンターでは設けている。私自身は競い合うことが苦手なので「大会で勝ちたいんです!」とか言われると途端に気持ちがぐったり疲れてしまうので、スクールという形はとっていない。スクールは長野県内にもたくさんあるし、そういった意欲的な子には別の施設を紹介している。

そういう姿勢もあってか、世間はオリンピックブームだというのに、真逆を目指しているクライミングセンターにはジムクライマーはあまり来ない。とはいえ11メートルという高さのクライミング施設はあまり無いので、練習環境としては悪くないと思う。意欲的な指導者の方がいたら場所を貸すので、ぜひとも意欲的なクライマーを育てる場として活用していただけたらと思う。

そんなクライミングセンターでの話をしたい。
ある時、クラブに通う子供の1人が私のところにやってきて「ねえ。先生やる気って知ってる?」と尋ねた。
私は、質問の根がわからず「どういうこと?」と答えた。
するとその子は「やる気って出したことある?」とやはり質問で返した。
ようやく子のこの質問の根がわかったところで私は笑った。

つまりクラブのこの子にとって私という人間は「やる気」という概念を持ち合わせていない人間と映っていたのだ。

ここからは予測だが、普段から力の入力(やる気)を促す言葉をたくさん聞いているのだと思う。

本当に小さな子供にはやる気という概念がない。必要ないからだ。しかし社会的な営みの中では確かにやる気という概念が必要なシーンがたくさんある。そういったシーンを、私と過ごす中で、私から全く感じず、見たこともない、これは一体どういう事象なんだ?という純粋な疑問なのだろう。

確かに、私には一般的な意味でいう所のやる気はない。いやむしろやる気という添加作用を自分自身に与えないように気をつけて生きていると言っても良い。自分は今やる気を出して頑張っているなと感じた時は、とにかく一歩立ち止まって、来た道を戻るようにしている。やる気や頑張りは自分にとって誤った道を進んでいるサインとなることが多いからだ。どうしてそう感じるかは、生物には個体差があるという理由だけで十分ではないかと思う。

しかし、そんな私だからこその特異な価値観というものがある。いつの世も普遍的でない分野から新たな発想は産まれているのだ。。。きっと。。

というわけで宣伝になりますが、クライミングだけでなく私生活から人生までを脱力系と化してしまった男の最高位高等技術を凝縮した記事がこちらです↓


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