中条遺跡 土偶A 21:継体天皇の父
刈谷市築地町(ついじちょう) 熊野神社の由緒にあった糟目神社跡(かすめじんじゃあと)と舟塚(ふなづか)を訪ねました。
熊野神社の由緒には以下のようにあった。
当時(※千年以前)この地に糟目神社が祀られ糟目の郷と称していた その後築地(※ついじ)と改名す しかるに寛永年間(今より三百五十年前)神宮寺別当職となり熊野三社大権現と奉称明治初年まで奉仕する
※=山乃辺 注
上記MAPのように、熊野神社の境内の一部は現在も神宮寺となっている。
その神宮寺の北東130m以内に糟目神社跡があるというので、向かった。
住宅街の中には2mほどの高さのコンクリート・ブロックの張られた石垣を持つ塚があった。
塚の頂上に向かって石段が延びており、石段の左手には以下のように刻まれた記念碑が建てられていた。
築地発祥の地
糟目神社跡
俗称富士塚
塚にはクヌギと思われる巨木が延びており、石段の上には銅板葺切妻造平入の屋根と正面に格子窓を持つ社が祀られていた。
糟目神社跡から、熊野神社の南東70mあまりに位置する舟塚に向かった。
舟塚に関しても、熊野神社の由緒には以下のようにあった。
人皇五十九代宇多天皇の御代(寛平年間今より約千年以前)善相公清行朝臣〜中略〜御舟塚より上陸
舟塚は築地川沿いの道路に面し、西隣だけは水田になっていたが、それ以外の周囲はすべて住宅かマンションだ。
目の前に流れる築地川は平安時代には存在していたことになる。
方形の雑草に覆われた敷地があって、印象的なイトスギが1本延び、奥には松と樹種不明の樹木が枝葉を広げている。
イトスギの前には「熊野社御神体上陸之地」と刻まれた記念碑。
記念碑の反対側には巨石が1コ置かれている。
その石の前に設置された教育委員会の案内書には熊野神社の由緒とはまるで異なる以下のような案内書があった。
応神天皇(誉田別尊)の4世彦主人王(ひこうしおう)がこの地に漂白し、松に舟をつないで上陸した場所であるといわれている。その松のことを「御舟の松」といわれた。
のち、宇多天皇の時(889〜898)に三善清行(みよしきよゆき=※善相公清行朝臣)が熊野三山の分霊を奉持し、佐久島を経てこの地に来て祀ったのが熊野神社の始めであると伝えられている。その時もこの松の木に舟をつないで上陸したと言われ、「熊野社御神体上陸之地」と記された石柱が建てられている。
※==山乃辺 注
この案内書に登場する世彦主人王こそが継体天皇の父親であり、『古事記』よりも成立が古く、7世紀頃に成立したと推定される歴史書『上宮記(かみつみやのふみ)』では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記されている人物だ。
応神天皇から推測すると、彦主人王は古墳時代の人物とみられ、三善清行は400年近く下った時代の人物ということになる。
この敷地に入って行くと、奥の樹種不明の樹木の根元は高さ1mほどの塚になっているようで、その塚に近づくと、案内書にあるような松が塚に根を張っていた。
松と樹種不明の樹木の間の根元には地衣類が繁殖して抹茶色に変色した板碑が傾いていた。
板碑には「御舟塚」とだけあった。
糟目神社跡と舟塚は大小の違いはあるものの、塚の形になっている。
熊野神社の磐座の脇で話し込んでしまった地元の70代の男性によれば、自分の子供時代、築地貝塚の存在するブロックの北側のブロックには3つの塚があったという。
ただ、それらが古墳なのか水田を築造する際に取り除いた土の集土場だったのかは不明だ。
そして、現在の熊野神社の北側には雁が音中学校(かりがねちゅうがっこう)が存在するが、その敷地は熊野神社の境内だった可能性が高い。
地元の男性によれば、熊野神社の社頭は築地川の南側のかなり先にあったというから、熊野神社は広大な社地を持った神社であった可能性があることになる。
築地川は上流が舟塚の目の前で暗渠に入っている。
その入り口の橋上から下流側を撮影したのが、以下の写真だ。
この地点で橋の長さは7mほど。
橋上から河床まで3mほどだろうか。
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たまたま通りかかってのぞいた熊野神社でしたが、その社地は市原稲荷神社に匹敵するほどの広大な神社であった可能性が高い場所でした。