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麻生田町大橋遺跡 土偶A 8:地津国の天津神

中山神社と同じ豊川市足山田町(あしやまだちょう)に「服織神社(はたおりじんじゃ)」があったので、寄っていくことにしました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

国道21号線沿いにあることで、地図で目に着いた服織神社は尾張国一宮真清田神社(ますみだじんじゃ)の境内に摂社として祀られている神社と同社名なので、気になった。

1MAP服織神社

しかし、真清田神社の服織神社は「はとりじんじゃ」と読んでいる。

祭神名も異なり、足山田町 服織神社の祭神は天機姫(テンキヒメ)と言うが、真清田神社の服織神社の祭神は萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)となっている。
しかし、他社で使用されていない「天機姫」の名は浜松市の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)などに祀られている天棚機姫神(アメタナバタヒメ)を省略したものと思える。
その天棚機姫神には萬幡豊秋津師比売命と同一神とする説があるので、真清田神社の服織神社と足山田町の服織神社の祭神は同神とみてよさそうだ。

萬幡豊秋津師比売命の「幡=ハタ」と「機=ハタ」は同義であり、ともに衣類を機織り(はたおり)する神であることを示唆している。
そして、萬幡豊秋津師比売命が天孫族の祖となっていないことからしても、両ヒメの素性が秦氏と関わりのある可能性の高いことが推測できる。

秦は紀元前221年に建国しているので、養蚕はその年までは遡れる可能性はあるが、中華人民共和国が政治的に主張している「養蚕は少なくとも5000年の歴史を持つ。」という話はどうだか。
日本の秦氏が秦と関係があるというのも、確実ではなく、秦の文明に触れた日本の氏族である可能性も考えられる。
実際、同じミトコンドリアDNAを持つ民族の移動と特定文化の伝搬のルートは一致していない。

萬幡豊秋津師比売命は尾張国一宮真清田神社の主祭神、天火明命(アメノホアカリ)の母神である。
一方、天機姫の祀られている三河国の一宮砥鹿神社(とがじんじゃ)の主祭神は大己貴命(オオナムチ)となっている。
天火明命は天孫族の祖であり、大己貴命は地津主(くにつぬし)。
文字通り天と地ほど異なる。
その違いは、そのまま天孫族が収奪した地尾張と地津神(くにつがみ)が慕われている地三河の違いなのだろうか。

足山田町 服織神社は、ちょっとした丘陵上に祀られており、国道21号線はその丘陵を切り通す形で東西に走っているので、丘陵の谷間を21号線が走っている形になっている。
足山田町 服織神社は国道21号線の北側に面しており、表参道と脇参道の入り口が21号線に接していた。

1足山田町 服織神社社頭

社頭から境内に皮採取で紅樺色になった檜が目立つ。
表参道は境内の東側にあって、南向きの社頭には漆黒の笠木以外が灰青に染められた両部鳥居が建てられ、コンクリートでたたかれた参道が鳥居の手前から奥に延びている。
紅樺色になった檜によって、灰青の鳥居が引き立っている。

2鳥居

灰青色の鳥居も皮採取の檜も初めて遭遇した。
これまで、山奥には数限りなく行っているのに、今回初めて檜皮の採取に気づいたのは、採取されたばかりだからなのかもしれない。

表参道は30mほど先で左に直角に折れ、短い石段を上がると、すぐ平らになった。
平らな山道は20mほど進むと、社殿の並ぶ開けた場所に通じていた。

3表参道

東向きの拝殿は銅板葺で入母屋造平入で、拝殿前は砂利が敷き詰められていた。

4拝殿

拝殿前で参拝したが、『東三河を歩こう』というサイトによれば、
https://www.net-plaza.org/KANKO/index.html

ここ服織神社では、この後寄った犬頭神社(けんとうじんじゃ)で生産された繭を、21号線に近くないことから見落とした、わくぐり神社で糸にされ、最後にここで織り上げられたことから「服織」という社名になったという。
服織神社の公式ウェブサイト(http://hataori-jinja.com)によれば、「糸(絹糸)」は三河国に献上されていた。
服織神社拝殿の大棟中央に五七の桐紋が付いているのは「糸」の献上と関係がありそうだ。

5B五七の桐紋

そして、3月の例大祭で鬼、婆鬼、天狗が出て“おんび(通称おんべ:この神社特有の御弊)”で見物人たちを叩いて回り、子供たちはご利益を得るために“おんび”の先に付いたカラフルな短冊を取り合うという。

5C鬼と御弊

さて、拝殿の左側には瓦葺切妻造平入吹きっぱなしの覆屋が設けられていた。
屋内には6社の境内社が納められている。

5境内社群

この境内社群の中でメインになっているのは最も大きな躯体の社であり、唯一の檜皮葺の屋根を持つ、下記写真中央の若宮八幡社(祭神:仁徳天皇)だ。

6若宮八幡社

躯体はかなりくたびれており、基壇に使用されている石は石碑材やその端切れなどを割って流用したものに自然石を組み合わせて敷いて、水平を出したものだ。
こういうものもこの神社で初めて遭遇した。
その若宮八幡社の左の、ここの境内社で唯一の銅板葺の祠は稲荷社。
右の板葺の祠は御鍬社(おくわしゃ:祭神伊雑皇大神)だ。
この境内社群の中でも特異な社が檜の枝葉で屋根を葺いた下記の津島社だった。

7津島神社

社というよりも小さな櫓に屋根を葺いたものだ。
檜の枝葉で屋根を葺いたのは直前に寄ってきた中山神社の社と同様だ。

祀られた神名で興味を惹かれたのが、津島神社の左隣の大妙神だった。

8大妙神

当初は初めて聞く神名だと思ったのだが、考えてみると「大明神」に通じる名称であり、調べてみたところでは神力宇賀大妙神の省略名らしい。
つまり稲荷社のことだった。
前出の5社以外のもう1社も稲荷社だった。

ここ服織神社には江戸時代に足山田村の様子を書いた差出帳(現在の町要覧)が2冊保存されているという。
その差出帳の享保11年(1726)の内容には羽鳥大明神(=服織神社)以外の末社を以下のように記している(右欄は現在の境内社)。

                   《現在の境内社》
・若宮八幡宮(年永薬師 石堂)    ・若宮八幡宮 
・村荒神(年永薬師 石堂)      ・稲荷社
・白山大権現(年永薬師 石堂)    ・稲荷社
・稲荷大明神(年永薬師 木少御座候) ・大妙社
・弁才天(年永薬師 木少御座候)   ・御鍬社
・年永薬師              ・津島社

年永薬師に祀られていたものがすべて末社として羽鳥大明神(服織神社)に遷座されたようだ。
「木少御座候」という用語は初めて知ったが、読みは不明。

服織神社には拝殿前広場の隅に古木には見えないツガが幹を伸ばしていて、

9ツガ

傍に教育委員会の製作した以下の案内書『服織神社のツガ』が掲示されていた。

市指定天然記念物

このツガは、地元では永くイチイの木であるとおもわれていて、一位に通じることから服織神社の神木的な扱いを受けてきました。
実は長卵形をしており、枝の端に下向きについています。
樹齢はおよそ200〜300年と考えられています。

この文章、長卵形をしているのが何なのか書かれていないのと、実際のイチイの葉がどんな形なのか書かれていないので、後半の文意がまったく読み取れない。
イチイの葉は常緑針葉樹なので、基本的に「針」の形をしているが、ツガもイチイもほとんど同じ形をしており、案内書にあるような「長卵形」とはとても言えない形をしている?????
だからツガがイチイと混同されたのだろう。
イチイは三河にとっては特別な樹木なのだが、それはいずれ紹介する。
ちなみにイチイは以下の旧壱万円札の聖徳太子が両手で支えている笏(しゃく:木板)の原材料になる樹木である。

10聖徳太子

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聖徳太子像はもっとも多く札に使用されてきましたが、札で聖徳太子像を思い浮かべる年代は何才くらいまでなんでしょう。
中学校の歴史教科書から聖徳太子像を取り上げないとする論議もあり、最後に使用された壱万円札も国立印刷局HPによれば「昭和61(1986)年1月4日」となっています。

https://www.npb.go.jp/ja/intro/kihon/kako/index.html

歴史教科書から聖徳太子像を抹消したい勢力が存在する日本なので、教科書から姿を消してしまうと、だれも聖徳太子像を思い出せなくなってしまいます。
今でもタンス預金で壱万円札を持っている人はいるでしょうが、仮に生まれた子供が中学生になる13年後頃に世の中から旧札が姿を消すとするなら1999年頃くらいまでなので、平成10年以降生まれの人たちはお札の聖徳太子に触れていないのかもしれません。

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