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麻生田町大橋遺跡 土偶A 10:白い犬の頭を祀る

豊川市の大木町 弥栄神社(いやさかじんじゃ)の西北西1.6kmあまり先に「犬頭神社(けんとうじんじゃ)」という奇妙な社名の神社が目に止まったので、弥栄神社の直前に参拝した足山田町(あしやまだちょう)のお犬様(中山神社)と関係がありそうなので、向かうことにしました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

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国道21号線から県道334号線に右折して北上していくと、小さな十字路の左手に「犬頭神社」と刻まれた社号標があった。

1B社号標

路地に折れて西に向かうと、最初の十字路の手前右手に南向きの石造大鳥居のある前に出た。

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社地には高さ1.2mほどの石垣の上に同じ高さのコンクリート塀が巡らされていたが、大鳥居は路地から10m近く引っ込んだ場所に位置し、大社らしく社頭は広く開口されていた。
鳥居のすぐ先には表参道を半分遮るように右寄りに瓦葺の手水舎があり、正面奥には左隅に戸が設けられた以外に開口部の無い、主に真赭色(まそおいろ)に染められた蔵らしき社殿があるのみで、神殿は見当たらなかった。
調べてみると、この神社には4台の山車があることが判った。
おそらく、山車蔵だと思われる。

ここは千両町(ちぎりちょう)という気になる町名だった。
「ちぎり(千両)」という奇妙な地名は、生糸・織物の商い額に由来している。
「千両」という文字を含む地名はほかに1ヶ所、京都に「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」という地名が存在する。
千両ヶ辻は西陣織の中心地として栄えた地域で、千両町と同じく、一日に千両に値する生糸・織物を商った西陣の中心地であることから名付けられたという。

犬頭神社にやって来た時には未だ知らなかったのだが、以下の服織神社(はたおりじんじゃ)の記事で紹介したように、

服織神社で使用された絹糸は、ここ犬頭神社で生産された繭(まゆ)が使用された。

社頭には路地沿いに「郷社 犬頭神社」の社号標があったが、「郷社」を消すために埋めたコンクリートが流れてしまっている。

2犬頭神社社号標

「郷社」を付け加えていたにしては石材がまだ新しい。

この社号標の脇に教育委員会の製作した案内板『犬頭神社と千両の銅鐸』が掲示されていた。
犬頭神社の由緒部分を以下に紹介する。

犬頭神社の祭神は、農作物や蚕(かいこ)と関わりの深い保食神(ウケモチ)で、境内には桑の御神木があります。
三河国は古くから良質な絹糸の産地であり奈良・平安時代には税として国家へ納めていました。三河国の絹糸は「犬頭糸」とも呼ばれ『今昔物語』にある「参河(みかわ)の国に犬頭の糸を始むる語(こと)」は、当神社周辺にまつわる話とも伝えられています。

保食神は農作物の神として祀られる場合は「稲荷神社」とされることが多いのだが、ここでは蚕との関わりで祀られている。
そして、「稲荷神社」とされていないのにはもう一つ理由があった。
犬頭神社には保食神とともに、稲荷神ではない糸繰姫神(イトクリヒメ:京都亀山城主の恋した機織屋の娘を神格化した神)が祀られていたのだ。
つまり、この地の絹糸は京と流通があった可能性がある。
『今昔物語集』は全31巻からなる、平安時代末期に成立したと見られる説話集。
そこには以下の犬頭明神の縁起となる、「參河國始犬頭糸語」が記述されていた。
以下はそれを要約したものだ。

三河国の郡司は2人の妻に養蚕をさせていたが、本妻は蚕の飼育に失敗して、みな死んでしまった。本妻の元には夫も訪れなくなり、家は貧しくなった。
ある日、本妻は桑の葉に1匹の蚕がついているのを見つけて飼うことにしたが、飼っていた白犬がそれを食べてしまった。
蚕一匹のために犬を打ち殺す訳にもいかないと嘆き悲しんでいると、くしゃみをした白犬の鼻の穴から2本の糸が出てきた。この糸は引いても引いても出続けて、四五千両ばかり巻き取ったところで、糸は巻き尽くされたが犬も倒れて死んでしまった。本妻はこれを仏の助けだったに違いないと思い、桑の木の根元に犬を埋葬した。
ある日、たまたま郡司の夫が本妻を訪ねて来たところ、荒れた家の中には雪の様に白く光り輝く大量の生糸と、それを扱いかねた本妻が一人座っていた。本妻から話を聞いた郡司は仏の加護がある人を粗末に扱った自分を悔いて、新しい妻の元に通うことなく、本妻の家に留まったという。
犬を埋めた桑の木には沢山の蚕がついて素晴らしい糸が採れた。この話を国司に伝えたところ朝廷にも報告され、この後には「犬頭」という糸を三河国から納めることになり、この糸で天皇の衣服が織られたという。

『新訂 三河国宝飯郡誌』(1980年刊 P.67〜68)によれば、犬頭神社は埋められた犬の頭を祀ったことから「犬頭神社」と号し、ここの地名「千両」は献納した犬頭糸二千両に由来するという。
しかし、「千両」を「ちぎり」と読ませるのは千両町のみで、謎のままだ。

この説話に登場する「白い犬」は、中山神社のお犬様とは関係がないようだ。

小生の母親の実家は三河に存在し、小生が小学生低学年のころには未だ養蚕を行なっていた。
そのため、家は普段は天井の高い1階建の建物だが、養蚕の季節になると、床板を張って、2階建に変更できる構造をしていた。
暖房は囲炉裏に頼っていたことから、暖かい2階部分に桑の葉を乗せる養蚕の棚を張って、蚕を飼育していた。

それはさておき、案内板『犬頭神社と千両の銅鐸』の、銅鐸に関する記述が以下だ。

【千両の銅鐸】愛知県指定文化財 昭和38年4月19日指定
神社の宝物として、銅鐸が所蔵されています。
この銅鐸は明治36年(1903)年に千両から財賀に通じる「才ノ神」といわれる峠付近で偶然に発見されたものです。
大きさは、高さ56.9cm、重さは9.15kgの外縁付鈕式銅鐸(がいえんつきちゅうしきどうたく)で、弥生時代中期後半に製作されたと考えられ、三河地方最古の銅鐸とされています。

3B千両の銅鐸

大鳥居をくぐると、鳥居と山車蔵の間、40m近くは広場になっており、4台の山車を揃えるスペースになっているようで、大鳥居も山車が通れるサイズになっているものと思われる。

神殿の方は山車蔵と並んで、西側に並行して設けられていた。

3犬頭神社二ノ鳥居

大鳥居と同じ、南向きの石造二ノ鳥居が設置され、正面奥20mほどに拝殿が位置していた。
常夜灯にはすでに灯りが入っている。
この二ノ鳥居の前に出るために大鳥居を経由しないで脇参道から入ってこれるよう、社地の西の角地に石段を設けた異例な入り口が設けられていた。

4脇参道石段

こんな入り口を見るのは初めてだ。
しかも、石垣は表参道の入り口より倍の高さになっており、社地は西が高くなっていることが解る。

二ノ鳥居をくぐると、高さ1mほどに石垣を組んだ基壇上に設置された拝殿は瓦葺入母屋造で向拝屋根を持つ建物だった。

5犬頭神社拝殿

もちろん、拝殿前には使いの狐ではなく、狛犬が鎮座している。

本殿は奈良の春日大社以外では稀にしか遭遇することのない、銅板葺春日造だった。

6犬頭神社本殿

その最大の特徴は切妻造、妻入りの屋根に乗った劔のように反った大きな千木だ。
鰹木は2本と決まっている。
なぜ、春日造の本殿なのか。
おそらく、奈良時代から絹糸をこの地から中央に献納していたことと関係があるものと思われる。

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陽が落ち始めたことから、この日は犬頭神社から帰途につくことにして、名古屋市に通じる自動車専用道路国道23号線の入り口に向かいました。

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