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麻生田町大橋遺跡 土偶A 100:筒男とチューブ

豊橋市賀茂町 賀茂神社の回廊の西の外側に回ると、3社の境内社が並んで祀られていました。

3社のうち、右端の拝殿側に祀られている社には「淡嶋神社(あわしまじんじゃ)」の社号標が建てられていた。

境内に掲示されていた『参拝案内』には「安産子育」という神徳が紹介されていた。
かなり痛んだ立て札の社号標にも「子宝 安産 難病消除 針供養」の文字が見える。
祭神に関する情報は無いが、和歌山市にある総本社の主祭神は以下となっている。

・少彦名命(スクナビコナ)
・大己貴命(オホナムチ)
・息長足姫命(オキナガタラシヒメ)

神徳の案内書からすると、ここ賀茂神社では息長足姫命をフューチャーして淡嶋神社を祀っている可能性がある。

境内社の境内には4月の中旬だというのにまだ、散ったばかりの赤い落ち葉が地面を覆っていて、華やかな雰囲気になっている。
調べてみると、ノムラモミジの落ち葉のようだ。
葉の形は一般的なモミジの葉の形と一般的なア-モンド形の広葉樹の形があり、ここのは一般的なア-モンド形の広葉樹の形をしていた。

ところで、淡島神社の賽銭箱には切妻造板葺の屋根が葺かれていて、屋根に小口が削がれていない5基の千木が乗っていた。
こんな屋根は初めて見た。
賽銭箱は下駄を履かせた、まな板のような基壇に乗せられ、その手前には左右1対の棒を立て、注連縄が張られていた。
屋根の付いた賽銭箱は見かけることがあるが、ここのような形式のは初めて遭遇した。
また、賽銭箱の裏面には3本の丸棒を組み合わせた鳥居が建てられており、賽銭箱が注連縄と鳥居でサンドイッチになっている格好だ。

鳥居の正面奥には50cmほどの高さの石垣の上に銅板葺切妻造平入の社が祀られており、ここにも神前幕が張られれているのだが、その神前幕に染められた神紋はここの賀茂神社の神前幕とは異なり、賀茂別雷神社と同じ二葉葵紋が染められていた。

そして、賀茂町 賀茂神社の公式ウェブサイトにも、この神紋が使用されており、賀茂神社の神徳として「安産祈願」がピックアップされているのだが、この神徳は、明らかに賀茂神社のものではなく、淡島神社のものだ。
ちなみに賀茂別雷神社の神徳は「厄祓い」となっている。

淡島神社の左隣に祀られている社は、境内社の片岡神社だと思われる。

社前に切妻造素木葺吹きっぱなしだが、土台を打った覆屋が設置されており、屋根には男神を意味する外削ぎの千木が2基乗っている。
覆屋の中には中空が通っているチューブ状になった樹木の幹がカットされてブロックを並べた基壇上に置かれている。

この覆屋の奥には石段を持った銅板葺切妻造平入の覆屋が祀られ、正面全面が格子窓になっている。

面白いのはこの覆屋の真後ろにも穴の空いた四角い木彫(?)のようなものが置かれていたことだ。
チューブ状の幹といい、穴の空いた四角いオブジェといい、当初は女性性(陰形)を表しているのだろうと考えた。
この神社に関する情報は見当たらないのだが、単純に片岡神社の総本社とされる神社は存在しないようだ。
ちなみに、奈良県北葛城郡王寺町に祀られた片岡神社を参照すると、その祭神は以下6柱となっている。

●天照皇太神
●表筒男命・中筒男命・底筒男命(ウワツツオ・ナカツツオ・ソコツツオ)
●品陀別命(ホムダワケ)
●清瀧命

この中にはチューブ状の樹木の幹と、まともに繋がるものが存在する。
名前に「筒」を持つ表筒男命・中筒男命・底筒男命、いわゆる住吉三神だ。
住吉三神なら、チューブ状の幹を収めた覆屋の千木とも合致する。
住吉三神はイザナギが黄泉国(よみのくに:死の世界)から現世に戻った折、瀬の中で黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行ったが、その時生まれた3柱の神だ。
ここ賀茂神社の片岡神社は住吉三神をフューチャーした境内社と考えられる。

ここに祀られたもう1社の境内社は頌勲社だった。

境内社3社の北西側の林の中に磐座なのか石置き場なのか判断に困るものが置かれていた。

4コの大きな自然石なのだが、石置き場にしてはムダに空間が開けて置いてあるし、石が立ててあるように見える。
かといって、磐座にしては石の配置の空間が人為的な感じがする。
しかも、その中に白い河原石が置かれていた。
二つの巨石の間に置かれた白い河原石は、それこそ石材置き場のように全部が纏めて1ヶ所に集めて置いてあるのだが、1つも積み重なっておらず、意図的に積み重ならないように置いてあるように見える。


これらに関する情報も見当たらない。


この石群の南側の東西に通っている脇参道のすぐ北側に下記写真のような檜皮葺(ひわだぶき)流造吹きっぱなしの高さ1.5mくらいの社が祀られていたが、向拝屋根が母屋に匹敵するボリュームがあり、脇参道の方を向けるのではなく、脇参道と平行に東向きに祀られていた。

社殿の様子から東照宮ではないかと思ったのだが、この社の向いている方向に、それを裏付けるものが置かれていた。

葵巴紋の飾られた衣を纏って冠を被り、手に笏(しゃく)を持って胡座をかいた男のファンキーな像だ。
徳川家康としか考えらえない。
この像が設置された切り株には小銭がたくさん置かれていた。
徳川家がこんな小さな東照宮を祀ることはないので、徳川家康を崇敬する者が祀った社が周辺からここ賀茂神社に持ち込まれたものではないかと推測した。

この社の西側にも銅板葺切妻造で大きな向拝屋根を意図してデザインされたと思われる高さ50cmほどの吹きっぱなしの社が置かれ、朱の瑞垣で囲われていた。

やはり、雰囲気は東照宮を感じさせるものだが、確証は無い。

(この項続く)

◼️◼️◼️◼️
徳川家に庇護されている神社仏閣は葵巴紋の使用が許されているが、ここ賀茂神社には使用されていません。賀茂町 賀茂神社には家康が武田信玄との戦いで敗走し、賀茂神社内の大楠の空洞に身を寄せて一命を取りとめたという逸話が残っていますが、まったく相似な話がすでに紹介した岡崎市大多喜町の山中八幡宮にも残っています。
〈https://note.com/38rashi/n/n04ef44fedc03〉
山中八幡宮の場合は一向一揆の信徒たちに追われて逃げ込んだことになっています。

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