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麻生田町大橋遺跡 土偶A 24:徐福と兎の足

豊川市小坂井町の五社稲荷神社から観音山古墳に向かう途中にある、同じ小坂井町の菟足神社(うたりじんじゃ)に寄ることにしました。菟足神社に最初にやってきたのは30年ほど前のことで、徐福伝承のある神社であることを知ったからでした。今回で菟足神社にやって来るのは3度目になります。

徐福のことを知ったのは新宮市(和歌山県)でたまたま宿泊したホテルの近くに徐福公園があり、そこに徐福の墓があることを知ったのが初めだった。
墓が存在していても、30年ほど前には徐福の実在は疑われていた。
何しろ、徐福が日本列島にやって来たのは紀元前210年頃のことで、つまりイエス・キリストの生まれる200年以上前に当たり、墓と伝承以外には徐福が持ってきたとする、すり鉢を神体としている熊野市の徐福ノ宮の存在くらいしか、具体的なものが存在しないのだから。
しかし、日本列島だけで、少なくとも30ヶ所以上の伝承地が存在し、

この30年の間に朝鮮半島、シナ地域でも多くの徐福伝承地の存在があることが明らかになって来ており、徐福実在説は強くなってきているようだ。
しかし、徐福に関する情報は菟足神社内に具体的なものがあるわけではなく、以下の社前案内板『菟足神社と徐福伝説』の情報しかなかった。

今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。
ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟 足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
〈一〉
熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。
牛窪記〔元禄十年(1697)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
〈二〉
菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正11年12月22日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。
〈三〉
菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。

菟足神社のあるこの地に「熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。」とありますが、この日、先に寄った蔵王神社に関する以下の記事も徐福に関連するものでしたが、蔵王権現が修験者によって祈り出された神であることは偶然ではないでしょう。

最初に菟足神社にやって来た時に知ったのは、この神社が手筒花火発祥の地であることだった。

今回は東側から菟足神社に接近したため、鬼門を向いた脇参道から社内に入ることになった。

麻生田大橋遺跡 菟足神社 船山1号墳

脇参道入り口の社号標には「式内 菟足神社」とあった。

脇参道入り口 社号標

兎(菟)の足(後ろ足)は英語圏の国や、その周辺では「rabbit foot」と呼ばれ、お守りとされてきた。
カジノを利用する人たちなどがキーホルダーに付けていたりするものだ。

rabbit foot

なぜ、兎の足には不条理な力があると考えられたのか。
その説は複数あるが、個人的に気に入っている説は以下のようなものだ。

ウサギの中には穴の中に巣をもつものがおり、ウサギが地下に棲むと信じられていた聖霊たちと交流していた動物であるから。

地下に棲む不条理な存在と交流する(あるいは同一とする)キャラクターは日本にもあって、仏教系では地獄に降りて、そこに落ちていた人々を教化し、自らそれらの人々の苦を引き受けたとする地蔵菩薩、あるいは実在した人物として、平安時代初期の公卿にして文人である小野 篁(おの の たかむら)が存在する。
小野 篁には現世と冥界との間を行き来していたという伝承が存在する。

しかし、菟足神社の社名は兎の足と関係があるものではなく、祭神の菟上足尼命(うなかみのすくね)の名に由来するものだ。
菟上足尼命とは前に紹介した八幡町 船山1号墳の被葬者説のある人物である。

脇参道入り口には表参道の入り口と同じく門柱に注連縄が張られていた。

脇参道社門

脇参道入り口周辺に愛車を駐めて、参道に入り、70mあまり南西に向かうと、右手にニノ鳥居のある前に出る。

二ノ鳥居

必然的にニノ鳥居は南東を向いており、石畳の表参道は北西正面40m以内に位置する拝殿に延びていた。

ニノ鳥居をくぐって拝殿前に出ると、銅板葺入母屋造平入の拝殿が高さ50cmほどの石垣上に設置され、正面は舞良子(細い桟)で補強された板壁で中央には格子戸が立てられている。

拝殿

石垣上、拝殿の周囲は玉垣が巡らされていた。
石段を上がって参拝したが、この神社の社前案内板『式内 菟足(うたり)神社』には以下のようにあった。

御祭神  菟上足尼命
創立   白鳳十五年(686)

穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく 当地に御遷座になった。
当社の大般若経585巻は、國の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書(1176~1179)であるが、長い間弁慶の書と伝え られていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた。)
なお応安三年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河國名所図会に出ている。
当社のお田祭の行事(昭和29年県無形文化財 指定)は、旧正月に行なわれる。風祭りとして知られる例祭は、四月第二土曜、日曜日 に行なわれ、打上花火 手筒花火は特に名高い
また、祭礼の古面(五面)は昭和40年県文化財に指定されている。

拝殿内は畳敷で奥には御神酒が奉納され、左手には巨大な兎の神輿が置かれていたが、死角で全体像は撮影できなかった。

拝殿内

だが、全体像が以下に紹介されていた。

拝殿脇に回ってみると、本殿は銅板葺流造で、千木は外削ぎで男神を表していたが、鰹木が1本も無い、変則の本殿となっていた。

拝殿の右手(北東側)には石垣上に瓦葺白壁の塀を巡らせた境内社が祀られていた。
すでに5時を回ったのか、門灯が入っている。

菟足八幡社

石段を上がると格子戸には厚い銅板に「八幡社」と刻まれた表札が取り付けられていた(ヘッダー写真)。
菟足神社に八幡社が祀られていることは『菟足神社と徐福伝説』にある「菟足神社の創設者は、“秦氏”ともいわれている。」という案内と無関係ではないだろう。

格子越しに白壁内に設置された菟足八幡社は美しいカーブを持つ銅板葺屋根吹きっぱなしの覆屋内に祀られ、覆屋前には対になった小さな陶製の狛犬が寺勾配をプレーンな意匠にアレンジした基壇上に置かれていた。
非常に洒落た覆屋と狛犬の基壇だ。
この覆屋の背後の白壁の前には同じ規格の石祠がズラリと並んでいた。

境内社菟足八幡社

菟足神社内には瓦葺切妻造でモルタル(?)の壁と鉄の扉を持つ防火目的の建物と思われる蔵が建造されていた。

大般若経収蔵庫

それは、案内書『式内 菟足神社』にある大般若経を収蔵した蔵だった。かつての菟足神社は神仏が習合していたことになる。鉄の扉には金箔を張られた菟足神社の丸に兎紋が装飾されていた。

大般若経収蔵庫扉 丸に兎紋

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この日のツアーは菟足神社から、すでに紹介済みの観音山古墳に移動して終了しました。ここまでに紹介した神社は古墳を巡るのに伴って遭遇した神社でしたが、この後は豊川市内の神社を中心に巡ることにします。

この記事から新しいnote用エディターを使用したところ、ヘッダー写真や文字記入ができなかったり、その他のバグが複数あって、記事が完成できませんでした。以下のOSとブラウザーの組み合わせで記事作成をしていました。

macOS ver.10.14.6
Safari ver.113.0.5

しかし、使用ブラウザーをGoogle Chrome ver.96.0.4664.55に変更することで、なんとか記事を完成することができましたが、それでもバグが複数あって、記事を完成させるには工夫が必要でした。


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