今朝平遺跡 縄文のビーナス 62:水神と弘法
豊田市前林町の前林水神から、加茂川町の水神社に向かったのですが、陽がかなり傾いてしまい、撮影した写真をチェックしたところ、手ブレが酷くて使い物にならなかったので、今年の5月の初旬に再び加茂川町に向かいました。
加茂川町 水神社は郡界川の北側、地理院地図によれば、無名の山の尾根下、標高127mの場所に祀られた神社ですが、麓を通っている県道341号線からは30mあまり山を登っていくことになる。
水神社には加茂川町の弘法庵から登る上記MAP白い表記の道がある。
黄色い表記の道は地図には無い道だが、行ってみたら、新たに設けられていた道で、アバウトだが、私が書き込みした参道だ。
おそらく、ここの水神社は弘法庵と神仏習合していたものが、神仏分離されたことから、水神社として独立して祀られるようになり、それに伴って水神社専用の参道が設けられたものと推察できた。
郡界川は巴川に合流している支流で、合流点近くに祀られた中垣内町 市杵嶋神社の脇を流れていることは以下の記事で紹介している。
加茂川町 水神社は中垣内町 市杵嶋神社の上流3.6kmに位置している。
弘法庵前の郡界川には加茂川橋が架かっているが、その加茂川橋上から弘法庵とその脇奥にある複数の石仏を納めた覆屋を撮影したのが下記写真だ。
最初に加茂川町 水神社にやって来た時は愛車は加茂川橋脇の341号線の膨らみに駐めて、地図に表記のある登坂道である弘法庵前の道を登った。
弘法庵前まではコンクリート舗装された坂道になっている。
341号線脇には暗渠になったU字溝水路も設けられている。
弘法庵も石仏群覆屋も、それぞれ別に石垣を組んだ土壇上に設置されていた。
坂道は石仏群覆屋下から未舗装になり、すぐ森の中に向かっている。
弘法庵はトタン張切妻造棟入で、大きな向拝屋根が設けられている。
石仏群覆屋は平入の建物で前面は全面が解放された吹きっぱなしになっている。
弘法庵を正面から見上げると、屋根は右側の庇が長くその下は物置になっていた。
弘法庵の正面は格子窓を持つ板戸が締め切られている
戸には花立てが取り付けてあり、軒下の左右には千羽鶴が下がっていた。
石仏群覆屋の方も左右の軒下に千羽鶴が下がっている。
弘法庵の軒下には素木の看板が掛かっているのだが、墨文字が退色して読めない。
庵内には奥に階段状の壇が設けてあり、最上段中央には赤地の布の帽子と涎掛けで覆われた弘法大師像。
脇侍として金剛界大日如来と胎蔵界大日如来が奉られているのだが、両大日如来とも基本の印を結んでいないので、どちらがどちらなのか不明だ。
一番下の段には香炉が置かれていた。
弘法庵から坂の上側にある石仏群覆屋前に登った。
ここには3体の等身石仏が奉られていた。
もっとも弘法庵側に奉られたのが不動明王坐像だった。
標準の憤怒像とはまるで異なる、柔和な表情の不動明王だ。
頭部と肩掛け(?)に赤色の胡粉が残っている。
石仏群覆屋中央には胡粉で赤色に染められた日輪を背負った金剛界大日如来坐像が奉られていた。
智拳印を結んでいるが、右手は仏の世界、左手は人間世界を表わし、仏が衆生と一つになることで衆生の煩悩を滅し、仏の知恵を得させる印とされている。
昭和期の漫画や映画では、忍者はこの印を結んで登場するのがトレードマークだったが、今では使用されなくなった表現だ。
密教の不条理なイメージが忍者の不条理な能力と結びつけられたのだろう。
日輪の他に腕輪部分に草色が着色されている。
隣の不動明王は大日如来の化身とする見方もあり、関係のある仏だ。
もっとも弘法庵から遠い側に祀られていたのは三頭六臂(さんとうろっぴ)の馬頭観音立像だった。
馬頭観音も本来は憤怒像なのだが、やはり柔和な表情だ。
やはり腕輪には草色が着色されている。
郡界川に沿って通っている道で使役された馬のために奉られたものだろう。
この道は岡崎市北部に通じている。
石仏群覆屋前から坂道を登って行くと、山の土手側に点々と石仏が奉られていた。
上記写真には右に上がっていく急な分岐道が見えているが、この道は上記地図にあるように、山中を通って上記写真奥に向かう参道の途中につながっている。
この分岐道にも多くの石仏が奉られており、50体近くの石仏が存在すると思われる。
こうした山を利用して石仏を奉った真言宗系の場所は三河にはほかにも複数存在する。
多くの場合、石窟を設け、2体の石仏を対にして奉られている。
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多くの石仏の奉られた参道を水神社に向かって進むと、途中から石仏は姿を消しました。
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