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今朝平遺跡 縄文のビーナス 27:虎の神と三河鈴木氏

愛知県豊田市則定町(のりさだちょう)の則定熊野神社の本殿真裏の石山は何か意味があるのではないかと思われ、直前の記事に「ここの石山の意味?」というタイトルを付けたのですが、GoogleMapで則定熊野神社の部分の表示をUPにしていったところ、なんと「則定熊野磐座(いわくら)」という名称が表示されました。やはり「磐座」と認識された石山だったのです。「磐座」は、その名称からもWikipediaによれば、「古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもの」と説明されていますが、明らかに古神道が成立する以前から存在する自然信仰の一部です。小生が記事で「石山」と呼んだものが磐座であることが判明しましたので、後で、「ここの石山の意味?」の記事はタイトルを含め、一部を修正します。

豊田市則定町 心月院跡(鈴木正三史跡公園)
心月院跡(鈴木正三史跡公園)
心月院跡(鈴木正三史跡公園)/則定熊野神社境内社/貯水池

則定熊野神社の右脇を通り抜けて、則定熊野磐座脇から40mあまり北東に向かう通路があり、その先には開けた場所があり、それが鈴木正三(しょうさん)史跡公園だった。
その名前は音読みと訓読みを組み合わせた珍しい“読み”だが、鈴木正三が通常の“読み”を避ける僧侶であることと関係があるのかもしれない。
鈴木正三に関しては直前の記事で少し触れたが、則定熊野神社を祀った一族の一人だ。
公園に入っていくと、左手(西側)の土手の麓に「心月院跡」という標識が立てられていた。

心月院跡(鈴木正三史跡公園)

「心月院」とは鈴木正三の創建した寺院で、ここから東北東380mあたりに現存する寺院だ。
鈴木正三の時代には現在の心月院よりも標高の高い、この場所に存在していたのだ。
「心月院跡」といっても「跡」を証明するものはこの標識のみだ。
鈴木正三史跡公園に存在する主なものは、この標識と鈴木正三・重成公兄弟の等身の銅像のみだ。

鈴木正三史跡公園 鈴木正三・重成公銅像

上記写真左の行脚僧が兄の鈴木正三、右の侍が初代天草代官を務めた弟の鈴木重成だ。
鈴木正三史跡公園に掲示してある案内書『鈴木正三史跡公園』の情報に不足した情報をかなり加えると、以下のようになった。

鈴木正三・重成公の故郷、心月院跡地

矢並(現・豊田市矢並町)の鈴木氏は室町期に、則定(現・則定町)に城を築き移ったと伝わる。のちに則定の一族は徳川方の家臣団に加わり、裏山の椎城(しいじょう)を改修して詰城(つめじろ:本城に対する支城)とし、心月院跡地に居館を構えて住んだ、と考えられる。 正三は戦国時代、椎城主鈴木忠兵衛重次の長男としてこの地で誕生、弟重成も生誕。 やがて父重次の関東移住にともなって下総(千葉県)に移り住んだ。 正三は12歳、重成3歳であった。
成人した正三は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い、大阪冬・夏の陣に従軍し、200石の旗本になり、大阪番士などを勤めたが、直参旗本の身分を離れ、42歳で出家。寛永年間(1624〜44)にはこの地に心月院、山中村石ノ平(現・豊田市山中町)に鳳真寺を創建し、修行と布教の拠点とした。
正三は「世法即仏法」「仁王禅」「果たし眼(まなこ)念仏」などを唱えて、江戸で77歳の生涯を遂げた。正三はほかにも複数の寺院を建立・再建している。著作も仏教を否定した儒学者に対する反論を表した『盲安杖(もうあんじょう)』、当時流行していた仮名草子を利用した庶民向けの『因果物語』ほか多数を著した。
これらは井原西鶴らに思想的な影響を与えている。
弟の重成は天草・島原の乱後の初代天草代官として天草の復興に尽力し、正三も天草に赴き、切支丹の教義を理論的に批判した『破切支丹』を著し、寺社の建立・再興・民衆の教化などに協力した。
また、正三は自分の実子重辰(しげとき)を重成の養子にし、重辰が2代目天草代官を受け継ぐと、重辰を後見した。天草では今でも3人の鈴木氏を「鈴木さま」と呼んで、感謝と敬慕を寄せているという。
正三没後350年忌を迎え、足助町は鈴木正三史跡公園を整備し、鈴木正三・重成公のブロンズ像を建立した。
これらが、「心を自由に使って世界の用にたてる」という正三の思想と、兄弟のきずなを、今に生かし、 後世に伝えるよすがとするものである。

鈴木正三史跡公園内案内書他

Wikipediaによれば、正三は家督を弟に譲り、弟の仕事に協力を惜しまなかったことなどから、弟に対する愛情に尋常ではないものを感じる。
正三が仏教に帰依した最初の出来事は17歳の時に経典を読んだのがきっかけだったという。
その25年後に徳川幕府から禁じられていた旗本からの出家を実行したものの、当時の主君だった徳川秀忠の温情で許されたという。
正三は出家後参禅の修行から始めたものの、特定の宗派にはこだわりがなかったという。
また、正三の思想史上の評価をめぐって、仏教学者の中村元と歴史学者の家永三郎の間で論争があったという。

鈴木正三史跡公園の敷地に隣接した形で古墓が奉られていた。

心月院跡 古墓

前回、鈴木正三史跡公園にやって来た時は目的が鈴木正三史跡公園だったことから、この古墓に関しては記憶にすら残っていなかったので、古墓の背後の奇岩を見て驚いた。
その場所は鈴木正三史跡公園外だと思われるのだが、鈴木正三史跡公園の仕切りのすぐ外側と思われる場所であり、その奇岩の庇の下に50cmほどの高さの石垣の基壇を組み、その上に4基の頭頂が根元より太くなっている無縫塔(むほうとう)、方形の墓石1基、石標1基、頭頂が山形の額入れ加工された板碑(仏塔か)1基が並んで奉られている。
心月院跡に属する近世の墓であるという情報があるので、鈴木正三史跡公園は心月院跡の一部ということになるのだろうか。
奇岩下の古墓に関する情報は他には見当たらないのだが、無縫塔は僧侶の墓とされるから、心月院の関係者の墓塔だと推測される。
 
心月院跡から則定熊野神社に戻る途中、上記地図には表記されていない則定熊野神社の脇参道があって、その参道脇に境内社が祀られているので、今回もその脇参道を下った。
脇参道の北側に面して1.5mほどの高さの石垣が組まれており、そこに設けられた5段の石段の先には50cmほどの厚みのある1枚岩の巨石の基壇上に社が祀られ、その左脇に別の小さな基壇を持つ石祠が祀られていた。

則定熊野神社 境内社

石段を上がると銅板葺流造の社で、軒下には太い注連縄が張られている。

則定熊野神社 境内社

この社に関する情報は見当たらない。
向かって左脇には瓦祠の前に破損した菊丸瓦が折り重ねて置かれているが、心月院に使用されていた瓦だろうか。

石祠の方は平面が三角形の厚さ30cmほどの1枚岩の上に祀られている。

則定熊野神社 境内社石祠

屋根と平面図がコの字型の壁を組み合わせただけの最低限の要素だけで構成されたシンプルな石祠だ。
前回やって来た時に則定熊野神社の社殿脇に『虎の神』というタイトルの案内板が立てられていて、こう書かれていた。

「石の祠には、葵の紋が彫り出されています。徳川家康には虎の神(十二神将の一つ)の生まれかわりとも伝えられていますので、家康を祀ったものでしょう。」

鈴木正三は徳川家康の代から仕えた旗本。
それが則定熊野神社に虎の神が祀られた理由だろう。
ただ、この案内板の周囲には石の祠は見当たらず、何だろうと、思っていた。
前回はこの案内板と石祠が別の場所にあったので両方が結びつかなかったのだが、今回は案内板が見当たらなかったことから、その案内板の「石の祠」が目の前の石祠なのかもしれないと考えた。
なぜなら、則定熊野神社にはほかに石祠が見当たらないからだ。
ただし、目の前の石祠に明快な葵の紋は見えないので、オリジナルは風化して崩れたことから、低予算で造り直した石祠である可能性があると考えた。
あくまでも推測だ。
この不確かな石の祠の名称である可能性のある「虎の神」は何とGoogleMapに表記されていた。
驚いたことに、GoogleMapを拡大していくと、則定熊野神社より先に表示される。
しかも、この「虎の神」と「鈴木正三史跡公園」の表示場所が逆で間違っている。
GoogleMapはよく間違いが放置されたままになっているので、信用はしていないのだが、両方が入れ替わっているとしたら、やはり「虎の神」の祀られている場所は則定熊野神社境内社の場所ということになり、推測を裏付けるものであることになる。

境内社前からスイッチバック式に曲がりくねった山を下ると、水深が3cmくらいしかない水路が折れ曲がった脇に出る。
上記地図にも表記されている場所だ。

則定熊野神社 用水路

この水路の先にはコンクリートで二重にダムが設けてあり、貯水地になっている。

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則定熊野神社表参道の超急坂は新しい愛車のエンジンの排気量が150ccしかなく、登りきれる自信が無かったことから、徒歩で登りました。この愛車を乗り始めてから最初のうちは何度か高い急坂を徒歩で登りましたが、そのうち車重が軽いこともあって、思っていたよりパワーがあり、高速道路も上り坂でなければ80km巡行が何なくできることが解ってきました。以後は山に入る時はもう一台の250ccの愛車は車体が重いので、まったく使用しなくなり、愛知県内では150ccの愛車しか使用しなくなっています。

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