御用地遺跡 土偶 35:阿波忌部氏の梶ノ葉
安城市の御用地遺跡の東100m以内、一姫神社(いちひめじんじゃ)に次いで近くにある柿崎町の和志取神社(わしとりじんじゃ)に向かいました。「和志取=鷲鳥」であり、その社名から天日鷲命(アメノヒワシ)が祀られていることは解っていました。日本男子サッカー・ナショナルチームのマークになっている八咫烏(日本男子サッカー・ナショナルチームのマークになっている八咫烏(ヤタガラス=三足烏)を天日鷲命の別名とする説があります。
南側から不条理な路地を北に向かうと、南々西向きの石造明神鳥居がまともに路地の方を向けて設置されている。
鳥居の背後には常緑樹の高木を中心にした社叢が天日鷲命の杜を覆っている。
境内の外に位置する路地の脇に「式内 和志取神社」と刻まれた社号標が玉垣で囲われている。
つまり、和志取神社に向かっている路地は、かつて表参道だったのだろう。
路地は和志取神社社地の西側に沿う細い路地と、鳥居前で右に折れる道とに分岐している。
愛車を社頭脇に駐めて、鳥居の前に立つと、表参道は2段の石段で上がっており、一ノ鳥居の10mあまり先に一ノ鳥居をそのままスケールダウンした二ノ鳥居がある。
どちらの鳥居にも3つの〆の子(しめのこ)を結んだ注連縄が下がっている。
〆の子の意味は直前に寄った一姫神社の項でも紹介したが、
五穀豊穣のための雨を表すものだ。
ところで、一ノ鳥居での注連縄の柱への結び方は「一」を表しているが、二ノ鳥居では「IX」を横位置にした結び方をしている。
こうした一ノ鳥居と二ノ鳥居で結び方に差を付けているのは初めて遭遇したが、何か意味ありげだ。
しかし、単に一ノ鳥居のための注連縄を二本製作し、二ノ鳥居は小型であることから、長さが余って、こうなったということに過ぎないのかもしれない。
二ノ鳥居の20mあまり先には瓦葺の拝殿が位置しているが、二ノ鳥居の中心軸と拝殿の中心軸はズラしてある。
拝殿は瓦葺入母屋造平入で前面が舞良戸で覆われている。
境内に由緒書は見当たらなかったが、かつて境内に掲示されていた案内板には以下のようにあった。
一、神社名 和志取神社
一、祭 神 天日鷲命 伊弉諾命(※イザナギ)
一、創立年月日 継体天皇即位元年
一、由 緒
継体天皇即位(※450年?)元年設立で五畿七道の霊地に神社を建て厚く天神地祇を祭らしめ給う当社その一也
古来歴朝の崇敬浅からず延喜式神社に列し三河国二十六社の一にして碧海郡六座中の旧官社なり
永禄三年兵火に遭い焼失爾後天正三年まで仮殿遷座のままなりしが同年織田信長長篠城に向う途次当社に詣で手ずから金作りの大刀を捧げ戦勝を祈願しその折奉行に命じて社殿を再建せしめたり即ち武門武将の尊崇厚く国司国守藩主領主の崇敬推して知るべし
明治十五年十月村社に列し明治四十年十月神饌幣帛供進神社に指定せらる即ち氏子五十八戸の守神にして旧矢作町の崇敬神社たり昭和三年伊弉諾命を合祀昭和二十七年宗教法人となり氏子崇教者の誠心により社殿境内も整備され今日に至る (※=山野辺 注)
ネット上にある社伝によれば、社名は和志取神社→白山神社→和志取神社と変遷している。
一時、明治政府によって「和志取神社」という社名が禁止されていたようだが、氏子・村民の請願により元の社名が復活したという。
おそらく現代でも政権の中枢にいた藤原氏に配慮して、明治政府は阿波忌部氏の祖である天日鷲命を表に出ないように忖度したものと推測できる。
《藤原氏と忌部氏の関係》
藤原氏と天日鷲命の祖に当たる忌部氏の関係は天岩戸神話(あまのいわとしんわ)時代まで遡る。
『古事記』によれば、建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)の粗暴な振る舞いに対して天照大御神(アマテラスオオミカミ)が自分の至らなさを反省して、岩戸に隠れ、世の中が闇となってしまった時、神々は集まって天照大御神が岩戸から出てくるように考えた。
この時、活躍したのが中臣氏(=藤原氏)の祖である天児屋命(アメノコヤネ)と忌部氏の祖である布刀玉命(フトダマ)だった。
「あなたより貴い神が表れた」と騙され、天照大御神がその神を見ようと
岩戸から顔をのぞかせた時、左右から鏡を差し出し、天照大御神の姿を見せたのが天児屋命と布刀玉命だったのだ。
天児屋命と布刀玉命は太占(ふとまに:占い)を行う一族であり、必然的に行政に関わり、権力を争う関係になった。
しかし、その権力争いは次第に中臣氏が優勢となり、忌部氏は衰退していった。
その力関係は現代にも継承されている。
現代の日本人の3大人口の名字は斉藤・鈴木・高橋だが、いずれも藤原氏(中臣氏)の末裔である。
明治期の貴族(各地の名士)にも藤原氏は多く、各地の役人は地元の名士に忖度したろうことは容易に推察できる。
神話時代の力関係が今も継承されているのが日本国の面白いところだ。
《皇室のための阿波忌部氏》
忌部氏の中で現代でも天皇家(天照大御神の子孫)のために働いている氏族が天日鷲命の子孫の阿波忌部氏だが、最も知られているのは古代から大喪の礼(たいそうのれい:天皇の国葬)において着用する麁服(あらたえ)を織って御所に納めてきた三木家(阿波忌部氏/徳島県)の存在だ。
かつては村の2名の処女だけが三木家所有の麻畑に出入りして、麻の種を撒き、育て、新天皇・皇后のための2着の麁服を織り、係の者が京都御所まで徒歩で届けていたものだ。
下記写真は昭和天皇崩御の際、徳島県美馬市の三木家の麻畑で種まきの儀が行われている光景を小川智氏が撮影したものだ。
周囲には桜が植えられている。
現在の三木家当主である三木信夫さんとは安房(あわ:房総半島南部)で行われた阿波忌部氏と安房忌部氏のミーティングでお会いしたことがある。
ところで、和志取神社の手水桶には徳島市二軒屋町にある忌部神社(祭神:天日鷲命)と同じ梶ノ葉紋が浮き彫りされていた。
梶ノ葉とはカジノキの葉のことで、忌部氏はカジノキとヒメコウゾの雑種であるコウゾを使用して紙を漉いていた一族だったのだ。
和志取神社の本殿(下記写真左手の銅版葺流造の社殿)脇には石造明神鳥居を持つ鞘堂(さやどう)が祀られており、堂内には2社の境内社が祀られていたが、平成祭時の由緒書には「字(あざ)和志取一番無格社熊野神社を本社に合祀した」とあり、1社は熊野神社、もう一社はその後に合祀された社と思われる。
天日鷲命の別名が八咫烏であることは、熊野神社がここに合祀された必然である。
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八咫烏は、日本神話に登場する三足烏(さんぞくう)であり、神武東征の際、イワレヒコ(神武天皇)のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされます。
一方、『日本書紀』神武東征の場面で、金鵄(きんとび)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされていて、天日鷲命の別名である天加奈止美命(アメノカナトビ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲命(=鴨建角身命)と同一視されています。
この双方の伝承から八咫烏は天日鷲命の別名とされているのです。