今朝平遺跡 縄文のビーナス 45:出雲族と三河国
愛知県豊田市川面町(かわもちょう)の怒田沢橋(ぬたざわばし)から県道33号線に戻り、40mあまり下ると、右手の山の上に向かう分岐道があり。その入り口右手に何かが並んでいました。
33号線の歩道に面してコンクリート・ブロックで石垣を組んだ基壇が設けけられ、中央と向かって右に2基の「名号石(みょうごういし)」、左に不明の石祠が奉られていた。
ここはまだ、川面町だ。
分岐道は行き止まりまで410mあまりしかなく、個人邸への私道のようだ。
背後の崖を固めたコンクリート壁には案内書『名号石』が取り付けられていたことから、こうした石標の名称を初めて知った。
案内書にはこう、説明があった。
徳本上人(とくほんしょうにん)とは江戸時代後期の浄土宗の僧で、念仏行者として全国を巡錫し、「流行神」と称されるほど一世を風靡した人物だという。
二基の名号石に刻まれている仏名が紹介されていないので、読み取れないようだが、一般に本堂にももっとも多く奉られている「南無阿彌陀仏」の六文字が多いというのだが、2基とも異なった文字が刻まれ、「南無阿彌陀仏」とは異なるようだ。
この地域には真言宗寺院が存在するので、その系統の仏名ではないかと推測するのだが、2基の名号石に刻まれた文字をはっきり識別できる文字のみ漢字で表記すると以下のようになる。
字数が多く、両方とも頭に仏名ではない要素が付いており、仏名にしては文字が多い。
石祠に関しては情報が無く祀られているものは不明だ。
名号石前から33号線を240mあまり下ると、並行して流れている足助川(あすけがわ)に架かる川怒温泉橋(かわぬおんせんばし)の前に出た。
橋の入り口の両側には「川怒温泉」、「長門荘」という看板が建てられていたが、地図で見ると、橋の先の道路は袋小路で110m以内しか存在せず、建物は12棟存在するし、橋も頑丈な造りなのだが、看板が完全に汚れたままになっており、ネット上では2019年度の情報として「廃ホテル」となっており、建物はすべて廃屋、送迎用のバス2台も放置されているようだ。
川怒温泉橋上から足助川を見下ろすと、川床の水は綺麗で、水面巾7mほど、ホテルのあった左岸(下記写真右側)は樹木が美しい。
右岸側の川床は土砂が8m幅で堆積しており、雑草で完全に覆われ、走って来た33号線のガードレールが見えている。
一方、橋の下流側を見下ろすと、両岸の樹木と遠景の山並みが美しく、その谷間を足助川が流れている。
下流側の川床をUPして観てみると、川床に段差があったり、角の取れた巨石、多くの中型の石が川床から頭を出しており、美しい谷川だ。
33号線に戻り、さらに33号線を下った。
地図上では下ったのだが、実際の地形は少し登りになっており、小さな峠を越えるような道になっており、峠の頂上が右にカーブしていた。
川怒温泉橋から30mも走らないうちに峠の頂上の右カーブのコンクリートで護壁した土手の下方から脚の無いコンクリート造のテーブルが歩道に向かって突き出していた。
テーブルの上には中央に石祠が見えている。
路肩に愛車を駐めて観に行くと、中央に不明の石祠、向かって右側に役行者石像、左に三面六臂(さんめんろっぴ)の馬頭観音石像が奉られていた。
この3つの要素の組み合わせは、非常にこの地域っぽい。
この周辺の道路沿いに役行者像が多いのは、足助町に賀茂村(がもむら:愛知県東加茂郡))が併合されているたことと無関係ではないだろう。
役 小角(おづぬ:役行者)は奈良県葛城の賀茂氏だからだ。
『出雲口伝』によれば、出雲から奈良県葛城に移った賀茂氏は出雲族の八咫烏(やたがらす:賀茂建角身命)の子孫、東王家「富家」の一派であり、賀茂別雷神(かものわけいかづち)を祀る京都上賀茂神社につながっている。
桓武天皇に京都を提供したのは賀茂氏であり、以後京都に御所を置くのは明治時代まで続いた。
賀茂氏は但馬(丹後半島)に移った海部氏(あまべし)、尾張に移った尾張氏とは同族であり、『足助八幡宮縁起』には以下のような内容の記述があるという。
上記、但馬から移されたという猿の形には八千矛神の子孫出雲族西王家の「神門臣家(かんどのおみけ)」の分家、大伴氏が関わっており、鹿の姿には大伴氏の分家の越智氏が関わっているとされ、鬼の躰に賀茂氏が関わっているとすれば、出雲族が複合的に三河に入植していると考えられる。
ここは川面町と竜岡町(たつおかちょう)との町境の川面町側だ。
この机上の石造物群前から33号線を下り始めると、すぐに竜岡町に入り、450m以内で33号線と足助川の流れが90度の角度になっている場所に出た。
つまり、橋の上でないのに足助川がまっすぐ見下ろせる初めての場所だ。
川床まではかなりの距離があり、上記写真右手(左岸)の山の中腹あたりから足助川を見下ろしている感じだ。
奥の上流で左手から曲がってきた流路は33号線の足元まで流れてきて、右にカーブしている。
水面巾は足元で13mほどありそうだ。
足元の川床には自然の堰のような段差ができており、落ちた水が白くて長い飛沫となっている。
足元のカーブは急角度で曲がっているために中型の石がたくさん、川床に溜まっている。
奥の方に赤茶色の橋が架かっているのが見えるが、地図には表記の無い橋で、寄ってこなかった。
上記写真左手の丘陵上の水田の上に見える白いガードレールが33号線だ。
33号線下で曲がった足助川は直後に33号線の真下に沿った流れとなっている。
この部分では足助川の川床に大型の砂利が溜まって水をせき止めてしまっており、流れは左岸(上記写真向こう岸)沿いの1m巾の部分を流れているのみだ。
ここでも酸性の水がアルカリ質の長石を含む成分と反応しているらしく、川床の砂利や砂が赤く染まっている。
その川面に左岸の樹木の枝葉が川中まで覆いかぶさっている。
上記の砂利の堆積した部分のすぐ下流では川幅が一気に縮まり、川床の砂利の堆積は左岸(下記写真向こう岸)下のみになり、水深は40cmくらいありそうだ。
左岸は雑草の根で地表はつながっているが、その下は水流に削り取られており、帽子のツバのように川面に迫り出している。
左岸の森は深い。
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三河に徐福伝承の地があることと、出雲族が複合的に入植してきていることは偶然ではないようです。縄文時代後期に日本列島に入ってきた製鉄族が最初の国「出雲王国」を建国し、その後に土木工事の技術を持った中近東系の民族が波状的に日本列島にやって来て巨大な前方後円墳を各地に建造しましたが、最近になって、この古墳時代の日本人のDNAが現代日本人にもっとも近いDNAを持つ日本人だということが判ってきたようです。東北大学名誉教授の田中英道氏はそのことと、昭和天皇が処刑されなかったことや諏訪製鉄族につながる銀座和光の時計台が爆撃されなかったことを結びつけて語っていました。
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