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中条遺跡 土偶B 3:なばなの里のウケモチ

このページでは、土偶B(仮称)の出土した愛知県刈谷市内にある重原本町の中条遺跡(なかじょういせき)と高津波町の厳島神社(いつくしまじんじゃ)を結ぶレイライン上の西側に位置している日神神社境内社の稲荷神社を紹介します。

●中条遺跡 土偶B

1レイライン日神神社境内社 稲荷神社

日神神社に向かうことにしたのはレイライン上をチェックしていたところ、日神神社が存在しており、社名からすると天照大神を祀っていると予想できるのだが、ネットで検索してみると、祭神は天照大神と保食神(ウケモチ)の2柱となっていた。
保食神は直前の日記で紹介したように、

このレイラインの東側に位置していた竊樹社(ひそこじんじゃ)の祭神御気津神(ミケツ)の別名と言っていい神だった。
それで日神神社に向かったのだが、まず、この神社は愛知県からは1.7kmほど外れた三重県桑名市に位置している。
この神社のある長島町は東側に木曽川、西側に長良川(ながらがわ)と揖斐川(いびがわ)の流れる流路の中の中洲となっていて、愛知県とも三重県本土とも接していない地形となっている。
南側から揖斐川と長良川の堤防上を北上して日神神社に着いてみると、前にも一度参拝に来た神社で、中部圏では誰でも知っている植物園なばなの里の広大な駐車場内に斜めに方形の社地を突っ込んだような配置になっている。

1日神神社社頭

かつて、周囲は日神神社社地に並行した水田だったのだと思われます。

1MAP日神神社境内社 稲荷神社

おそらく、前回は「日神神社」という社名に惹かれてやって来たのだと思われるのだが、祭神に関する記憶は残っていなかった。
「日神神社」という社名は天照大神が祀られていることを予想させるが、それなら「神明神社」という社名でいいわけなのだが、今回は保食神が合祀されているから「日神神社」という社名となったのだろうと、予想した。
もう一つ、「日神神社」の読みに関する情報が社内にもネット上にも見当たらないので、正式な呼び名が不明なのだが、「ひかみじんじゃ」と読むなら、愛知県で最も著名な神社である熱田神宮の元宮である氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)との関連が考えられるのだ。
現在の氷上姉子神社の主祭神は日本武尊の婚約者である宮簀媛命(ミヤズヒメ)となっているが、『名古屋市史 第1巻』(P520〜522)によれば、原始祭祀の時代には日神信仰だったとする説がある。
しかし、社頭の歩道脇に掲示されている板碑の『日上神社の由緒』には以下のようにあった。

当社は元和三年(1617年)頃開墾され、正保二年(1645年)から駒江新田とされた現在の地に延宝六年八月(1678年)西外面の八幡神社の摂社として勧請、天照大神を奉斎した。
 境内の稲荷神社は天保二年(1831年)宇氣母知命を奉斎する。

この由緒書でショックを受けたのは21km近い遠方から目標にしてやってきた日上神社に保食神が祀られていなかったことだ。

保食神(ウケモチ)=宇氣母知命

しかし、今回は保食神を目標に日神神社にやってきたので、稲荷神社に祀られた宇氣母知命が保食神から当て字変更されたものであることに気づくことができた。
ただ、気づいたのはこの日の日上神社にいる時ではなく、このブログを書くために『日上神社の由緒』をじっくり読んだ時のことだった。
なので、稲荷神社の写真は一応、抑えてきたのだが、撮影した時にはただの稲荷神社だと思っていた。
おそらく前回、予備知識無くここにやってきた時にはウキボチ(宇氣母知命)が保食神(ウケモチ)だとは気づかなかったと思う。
保食神(宇氣母知命)は『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する神で、こんな内容になっている。

天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

保食神の屍体の各部位から農耕に必要な牛馬と穀物、豆類が生まれるが、土偶と重なるのは土偶の多くが破砕してばら撒かれており、種蒔の代償行為(祭祀)である可能性のある部分だ。

保食神は『古事記』には登場せず、一般に女神とされている。
『ホツマツタヱ』では初代ウケモチの時代までは人に男女の別はなかったとされているようだ。

話は戻るが、この稲荷神社が成立したのは江戸時代であり、新田開墾に伴って祀られた神社ということからすると、古代祭祀の日神とは関係が無さそうだ。

とにかく、日上神社の石垣は尾張標準の河原石で組んだもので、南々西を向いた鳥居は石造伊勢鳥居。
鳥居の正面すぐ奥に瓦葺の社殿が建ち、境内の左右を樹木が覆っている。

社頭の歩道に愛車を留めて、鳥居をくぐると、切妻造平入の拝殿で素木造の木部は焼けており、正面にはガラス格子の窓が張られている。
拝所の踏み石は長辺が2mほどある巨石だ。

2日神神社拝殿

その巨石に上がって参拝し、ガラス格子越しに殿内を見た時に、この建物の向こう面も前面と全く同じガラス格子窓が張られていて、この建物が拝殿であることを思い出した。
そのガラス格子窓の外側に本殿は祀られている。
拝殿の裏面に迂回すると、1.5mほどの高さにコンクリートの垣を巡らせた土壇が立ち上がっていて、中央に土壇上に上がる石段が設けてある。
さらに、土壇の奥にはもう一段1mほどの高さに石垣を組んだ土壇が設けられており、その上に銅板葺神明造の本殿が祀られていた。

3日神神社本殿

鰹木は6本、千木は内削ぎで、天照大神を示すものだ。

石段を上がると、土壇上には細かな砂利が敷き詰められている。
日神神社本殿の向かって左側には朱の鳥居が建てられ、朱地に「正一位海山道稲荷大神」と白抜きされた1対の幟が下の壇に立てられ、上の壇にはやはり銅板葺神明造の社が祀られている。

4海山道稲荷神社

「海山道」は「みやまど」と読み、三重県四日市の町名だが、そこにある海山道開運稲荷神社が本社のようだ。
ちなみに、この神社では狐の嫁入り道中神事が行われている。

ところで、日神神社の稲荷神社は社の鰹木は5本で千木はおそらく外削ぎだったのだろうと思われる。
それは男神を表すものだ。

この稲荷神社の左側の下の壇に同じく銅板葺神明造で、日神神社本殿や稲荷神社の社より大きな社が祀られているのだが、この社に関する情報は、社内にもネット上にも見当たらない。
この社は銅製であることから、鰹木を外そうとした者がいたのか、1本が無くなり、2本が傾いていたが、6本だったようだ。
千木は内削ぎになっており、女神を表すものだ。

日上神社と稲荷神社を結ぶのは農耕ということなのだろう。

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中条遺跡と龍神を祀った厳島神社を結んだレイライン上に図らずして2社の農耕神が祀られていた結果となった。

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