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麻生田町大橋遺跡 土偶A 25:大蛇の胴回り

ここからは豊川市の神社を巡りますが、神社巡りをする場合は、最初にその地域の一ノ宮にご挨拶をするのが常道です。なので、三河の場合は一之宮である砥鹿神社(とがじんじゃ)にご挨拶するべきなのですが、砥鹿神社は豊川市街にある里宮と本宮山山頂下にある奥宮があります。かつて山頂近くに祀られた旧い神社のほとんどが、現在は参拝しやすいように山の麓に遷座しており、ご挨拶はどちらでもかまいません。
砥鹿神社の場合は、すでに10年ほど前に車で本宮山山頂付近にある奥宮に参拝しており、いつか徒歩で参道を登って参拝するつもりでいました。今回の小生の目的は神社そのものではないので、まずは砥鹿神社里宮にご挨拶したのですが、それは豊川市内の縄文遺跡を巡った日のことで、日没までにはまだ時間があったことから、初めて砥鹿神社里宮へ参拝に向かうことにしました。

砥鹿神社里宮は国道151号線に大鳥居が面していることから、参拝に向かう前に何度も大鳥居の前を行き来していたので、地図で場所を確認することなく、この日の主目的だった平井遺跡周辺から

151号線を北上し、まずは大鳥居の前に向かった。

砥鹿神社里宮
砥鹿神社里宮 大鳥居

しかし、奇妙なのは一ノ宮なのに社頭が西向きなことだ。
真っ当な神社は鬼門から西にかけての方角に社頭を設けることは避ける。
地図で確認すると飯田線三河一宮駅が大鳥居のほぼ真西320m以内にあり、おそらく飯田線が敷線されたのに伴って、砥鹿神社は駅側に大鳥居(一ノ鳥居)を設けたのだと推測できる。
駐車場を探すと、大鳥居の内側に大駐車場があった。
そこに愛車を入れて、かつての表参道を東にまっすぐ向かうと、何と100m以内で出口になっている西神門に着いてしまった。
辿ってきた参道は現在は脇参道になっているようで、西神門から境内を東に逆走すると、表参道は南にある南神門から北に延びていることが解ってきた。
南神門前も駐車場になっており、現在の鳥居はその駐車場の南端にただのオブジェのように設置されていた。

砥鹿神社里宮 南鳥居

社頭を西に設けたり、鳥居を駐車場内に設置したりと、この神社は神の通り道より参拝者の利便性(=集客)を第一義に参道を設置しており、境内にいても心がまったく定まらず、こんな荒んだ気持ちにさせられた神社は初めての体験となりました。
広大な敷地を持ちながら、こんな下手くそな参道を設計しているとは。
駐車場に直接面した南神門は銅板葺切妻屋根を持った八脚門が設けられ、大駐車場からも、この駐車場からも鳥居を通ることなく直接人が拝殿に向かうような設計になっており、このことで三河全体に悪い影響が出る可能性があるように思える。
この日は5月の中旬ということで、神門から真っ直ぐ北に延びる石畳の表参道の先には茅の輪が設置されていた。
まあ、茅の輪が出ている間だけは魔が神殿に侵入するのは避けられるだろう。

南神門の軒下には田原凧保存会から奉納された凧が2点掲げられていた。

砥鹿神社里宮南神門 奉納凧

田原とは知多半島西部の田原市になっている地域だ。
調べてみると田原市には唸り音をあげて飛び回る喧嘩凧の風習があることが判った。

渥美半島観光ビューローのサイトには以下のようにあります。

田原凧は、江戸時代より続く伝統の凧。
男子の生まれた祝に凧を贈り、端午の節供に揚げる「初凧」と、大空で勇敢に糸を切り合う「けんか凧」が名物です。

初凧には、凧絵師によって勇壮な武者絵や華やかな歌舞伎絵が描かれますが、
女の子の出生を祝う初凧には、巴御前や牛若丸などが選ばれて描かれます。

渥美半島観光ビューローのサイト
凧絵師

南神門には大きな金メッキの留め金具の使用された扉が取り付けられ、皇室と関係があることを示す十六菊花紋が装飾されている。

砥鹿神社里宮南神門扉 神紋

神門をくぐると、すぐ左手の生垣にまだ若いスダジイが伸びていた。

スダジイ

神門から石畳の参道を真っ直ぐ30mあまり進むと、綺麗な茅の輪が設置されていた。

砥鹿神社里宮 茅の輪

茅の輪に関しては鮮烈な夢を観たことがある。
かつて伊豆半島の根本にある三嶋大社に参拝したことがあるのだが、6月の後半に2度目の参拝をした折、その時も参道に茅の輪が出ていた。
三嶋大社の総門前に南北に延びる表参道の東西両側には大きな池が広がっており、西側の池には出島があって厳島神社が祀られている。
三嶋大社に参拝した夜、その厳島神社の夢を見たのだ。
夢の中でも三嶋大社に参拝した時、西の脇参道から入った。
脇参道から三嶋大社の総門に向かうと厳島神社の祀られた池の北岸に出る。
自分が池の北岸に至ると、厳島神社を取り巻くように池の水面で激しく水飛沫を挙げながら、胴回り6mはある大蛇が胴体をくねらせながらのたうっていた。
大蛇の口の中は真っ赤で、強烈な恐怖感を覚えながらも、なぜか暖かい幸福感に包まれてその光景を眺めていると、いつの間にか自分はその大蛇の体内に入り、立っていた。
その瞬間、茅の輪が大蛇の胴を示すものであると悟ったのだ。
朝、目が覚めてもその夢の記憶が残っていた。
“お知らせ”があったのだ。
それ以来小生は、それまで素通りしていた茅の輪をちゃんと決まった道筋でくぐるようにしている。

茅の輪をくぐると20mあまり先に檜皮葺入母屋造の一ノ宮にふさわしい大きな拝殿が設置されていた。

砥鹿神社里宮 拝殿

屋根上正面の千鳥破風(ちどりはふ)が巨大だ。
拝殿前に上がって参拝したが、社前由緒書には以下のようにあった。

三河国一宮
延喜式内社 砥鹿神社

        御祭神 大己貴命
        例祭日 五月四日
由緒
当社の創始は詳かではない。当社 神名が国史に明記されるのは、文徳実録巻二、嘉祥三(850)年秋七月の条からで、従五位下の神階に叙せられたとある。その後幾度かの加階を経て文政十(1827)年には正一位の神階に昇叙した。
平安時代初期以降当社は三河国の一宮、また延喜式神名帳搭載の明神小社として、朝野の崇敬を受け、当三河国内神社の首座として国司の巡拝及び奉幣に預かった。
慶長七年に、徳川家康より朱印領として一宮領百石、同八(1603)年には本宮山領二十石の寄進を受け明治に至った。
〜以下略〜

社前由緒書

大己貴命(オホナムチ)に関してはヲシテ文献では初代大物主(六代続いた役職のようなもの)としている。

ところで、拝殿前の表参道から分岐した脇参道は西に延び、出口となっている西神門に通じていた。

砥鹿神社里宮 西神門扉

西神門の扉に取り付けてある神紋は「亀甲に亀卜」紋だが、「亀卜(きぼく)」とは亀の甲羅を焼いて入ったヒビの形によって占う占術のことだ。
本宮山山上に祀られていた砥鹿神社に「亀卜」とは奇妙に思えるが、亀卜には鹿の肩甲骨も使用され、砥鹿神社の社名は亀卜に使用された鹿の肩甲骨に由来する名称だと思われる。

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当記事では大己貴命(オホナムチ)を祀った砥鹿神社里宮本社のみを紹介しましたが、次の記事で砥鹿神社里宮の境内に祀られていた摂社と石を紹介します。


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