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麻生田町大橋遺跡 土偶A 66:瓜とハナ

津島市上河原地蔵堂から西250mあまりに位置する津島神社の総本社に向かいました。noteに記事を書き始めて以来、津島神社は最大の大社です。

●麻生田大橋遺跡土偶A

津島神社の社頭と呼べる場所は東側と南側の2ヶ所あって、両方の入り口に大鳥居が設けられている。
まず東の社頭だが、大鳥居をくぐると表参道の左右は駐車場になっている。

1東の大鳥居

1MAP津島神社

2MAP津島神社社頭

東の大鳥居は名鉄尾西線津島駅と1直線の県道129号線で結ばれ、車社会になる前は門前町が栄えていたと思われるのだが、今では大鳥居直前左右の2軒の和菓子店が残っているのみだ。
津島駅から東大鳥居までジャスト1kmだが(おそらく計画的に駅の位置は決められたのだろう)、今や津島神社に参拝するために風情の無くなった道を1km歩く人はいないだろう。
鳥居の奥、駐車場の向こう側には楼門が立ち上がっている。
神社における楼門の存在は、ここが神仏習合の場であることを暗示しているが、実際に津島神社内には現在も神宮寺が存在している。
大鳥居と楼門をくぐれば拝殿に至るが、大鳥居をくぐって右手に入っていくと、真言宗智山派の牛頭山(ごずざん) 宝寿院がある。
この牛頭山という山号からも、津島神社の祭神がスサノオであることが解る。

大鳥居をくぐって40mあまり駐車場の間を抜けると、実際に水路の上に石橋が掛かっているが、現在は危険防止のために使用されていない。

2津島神社楼門

石橋の先10mほどにある短い石段を上がると、その踊り場に檜皮葺(ひわだぶき)入母屋造で朱塗りに白壁の楼門が設置されている。
1592年に建立されたものなので、豊臣秀吉によって寄進されたものとみられる。
楼門の左右の袖には大提灯が下がっているが、江戸時代までは仁王像が収まっていたはずだ。
楼門をくぐると開けており、20m先が拝殿だ。

一方、津島神社の南には東の大鳥居より大きな朱の大鳥居が設置されており、参道がまっすぐ北に延びている。

3津島神社南の大鳥居

下記記事で「津島神社参道宮道」道標(最上記地図に表記)を紹介したが、

この道標は津島街道と佐屋街道(津島街道下道)の集合点に建てられており、この道標の言う、「参道宮道」は東の大鳥居ではなく、南の大鳥居に向かっている。
だから、鉄道が敷線される前には社頭は南側にあったのではないかと思われるのだ。
津島街道は鎌倉街道の分岐道で中世には萱津宿(かやつじゅく:現愛知県あま市)から津島神社に至る参詣道だったのだ。
一方、佐屋街道は東海道宮宿(熱田宿)から津島を経由して桑名宿(現三重県桑名市)と結ばれている街道だった。

津島神社は3度目になるが、南側に天王川の痕跡である大池があることから、心理的に南の大鳥居側に引き寄せられ、初回から南の参道左脇に設置された駐車場に愛車を入れた。
今回も南の大鳥居から社内に入った。
駐車場の向かい側、参道右手には休息所を持つ観光センターの建物がある。
駐車場の先は左手に境内社が並び、右手は津島神社関連の建物が点在している。
参道脇の境内社は後回しにして、大鳥居から160m以内にある南門前に至ると、門前にはやはり水路が流れている石橋があり、石段上には檜皮葺切妻造の南門が立ち上がっている。

4津島神社南門

四脚門だ。
この門も1598年に建立されたものなので、豊臣秀吉の寄進になるものだろう。
門の正面奥は蕃塀でふさがれている。

石段を上がって門をくぐると、砂利が敷き詰められており、目の前には木造桧皮葺き3間巾で、紅白の木部を持つ大きな蕃塀があり、その奥は開けている。

5津島神社藩塀

蕃塀を迂回すると30mほど奥に檜皮葺切妻造棟入の拝殿が地面を吸い上げるかのようなフォルムで立ち上がっている。

6津島神社拝殿

白壁に木部は総朱塗りだ。
拝殿前で参拝したが、境内に掲示された『津島神社由緒のあらまし』によれば、祭神は以下となっている。

御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
御相殿 大穴牟遅命(おおあなむちのみこと/大国主命)

由緒のあらましをさらに抜粋して要約すると以下のようになる。

古くは津島牛頭天王社と申し、地元では「お天王さま」で通っています。
建速須佐之男命の御神徳は広大なものですが、特に津島神社では人の災厄と疫病除けの守護神として知られています。
社殿によれば欽明天皇元年(540年)の御鎮座で弘仁元年(810年)に正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正暦年中(990年〜995年)に天王社の号を賜ったと伝えられ、諸国の天王社の本社として全国に約三千社の御分霊が存在します。

牛頭天王を祀った天王社は後にスサノオと習合した神仏習合の祇園信仰にもとづく神社だが、ここ津島神社の系統の天王社のほかに京都の八坂神社、兵庫県の広峯神社の系統の天王社が存在する。
また、牛頭天王と習合していない氷川信仰にもとづく系統のさいたま市の氷川神社を総本社として須佐之男命を祀る系統の神社も存在する。
荒川流域に多く祀られた神社なので、江戸っ子はスサノオと言えば氷川神社を想起するだろう。

拝殿の大棟には銅の鬼が乗っている。

7津島神社拝殿鬼瓦

この大鬼には金箔の貼られた津島神社の神紋、木瓜(もっこう)が装飾されている。

8津島神社神紋

木瓜紋は瓜を輪切りした断面を枠にして、中に唐花を収めた紋だ。
以下は一つの解釈なのだが、瓜は波で岸に漂りつくものであり、祭神のスサノオが海外からやってきた人であることの暗喩になっている。
ただ、スサノオが外国人という意味ではなく、『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利(ソシマリ)の記述を引用した『先代旧事本紀』には以下(和訳文)のようにある。

スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨(ソシモリ:新羅の地名)に降りた。スサノオが言うには、この地に私は居たくない。埴土(しょくど:粘土)で船を作り、これに乗って東に渡り、出雲国の簸之河上(ひのかわかみ)と安芸国可愛之河上にある鳥上峰(とりかみのみね)に至った

もちろん、スサノオとイソタケルが降りた時代に新羅が存在した訳はなく、『和名類聚抄』が編纂された平安時代の曾尸茂梨に当たる場所という意味である。

また、ハナ(花)はハナ(鼻)に通じるものであり、イザナギが日向の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)で禊を行った際、鼻を濯(すす)いだときに産まれたとするスサノオの暗喩である。
これは駄洒落ではなく、神代(旧石器時代〜縄文時代)に各部族の中には文字を使用していた部族も存在したものの、全ての一族が共通して使用した文字は漢字が入ってくるまで存在せず、神代には花も鼻も「ハナ」そのものだったのだ。

拝殿内を観ると、正面奥には中殿が存在し、中殿から両翼に回廊が延びているのを見通すことができた。

9津島神社拝殿内


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前回、津島神社を訪れたのは尾張の旧街道巡りにハマっていた時で、佐屋街道を辿って桑名まで行く途中に寄った時のことでした。江戸時代の津島は佐屋街道の宿場町として栄えていたのですが、中世に遡ると津島は海に面しており、湊が存在していました。さらに奈良時代まで遡ると、津島は名前の通り海に浮かぶ島だったのです。現在確認されている限りでは津島に人が居住していた痕跡に関しては約2,000年前、弥生時代中期まで遡ることができます。そしておそらく縄文時代には海面下にあった時代があるものと推測できるのです。

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