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中条遺跡 土偶A 27:三尺坊・半僧坊・役行者

現存している重原の三井戸のうちの唯一の井戸、佐次兵衛井戸(刈谷市下重原町)に訪問した時、猿渡川(さわたりがわ)対岸の半城土町(はじょうどちょう)にも2ヶ所の井戸が存在したという情報があったので、猿渡川を渡りました。

●中条遺跡 土偶A

そこは中条遺跡の真南880mあたりの場所で、地図を見るとクランク状の路地に寺院もある場所だった。
しかし現場に行ってみると、現在は寺院以外は住宅になっており、井戸の痕跡は見当たらなかった。
存在している寺院も浄土宗寺院であり、趣味で覗くような寺院ではなかった。
そのクランク状の路地の街角に境内社ではない、独立した秋葉神社が祀られていたので、今回のテーマとは無関係だったが、のぞいていくことにした。

1MAP半城土町 秋葉神社

その半城土町 秋葉神社の社頭は西南西を向いており、社前に駐車場があったので、そこに愛車を入れた。

1半城土町 秋葉神社杜

社地は1.5mほどの石垣上にあり、右手には「秋葉神社」の社号票。
正面には6段の石段の上に石造八幡鳥居が設置され、大きな3つの房の下がった頑丈そうな注連縄が下がっていた。

石段を上がって注連縄をくぐると、さらに1.5mほどの高さの石垣が立ち上がり、石段の上には本瓦葺切妻造棟入で前面がガラス格子戸の覆屋が祀られていた。

2半城土町 秋葉神社覆い屋

秋葉神社に奉られているのは、秋葉権現(A)とする解釈と秋葉三尺坊大権現(B)とする解釈、AとBが習合したものとする3つの解釈がある。
秋葉権現とする解釈では秋葉権現を大己貴命(オオナムチ)としている。
秋葉三尺坊大権現とする解釈では秋葉三尺坊大権現を三尺坊(本地仏は観世音菩薩)と解釈している。
三尺坊の姿は下記右の図版のように火炎を背負った天狗、もしくはカラス天狗が白狐に乗り飛行自在の神通力を示す姿なのだが、三尺坊は室町時代に長野県水土内郡隠村の岸本家に生まれた実在の人物であり、4歳にして新潟県の蔵王権現堂へ修行に行き、10歳の時、戸隠の父の元に戻ったという人物だった。

2B秋葉三尺坊

上記左の写真は愛知県小牧市の福厳寺の三尺坊像だが、実在の姿を伝えた珍しい像だ。
蔵王権現とはこの後で紹介する役小角(えんのおづぬ)の祈り出した神。
三尺坊は26歳の時、比叡山の千日回峰行を終えて大阿闍梨(だいあじゃり)となり、蔵王権現堂十二坊のうちの第一である三尺坊に住持を務めた修験者である。
ちなみに平安時代に相応が始めたとされる千日回峰を達成した人物は51人(2017年達成)存在し、二千日回峰行を成し遂げた人物は1910年の正井観順を初めとして3人が存在している。
ところで、この秋葉神社に奉られているのは大己貴命ではなく、三尺坊だと思われる。

この秋葉神社の左脇には別に小規模な石垣が組まれ、秋葉神社と同じ規格の覆屋が設置されていた。

3半城土町 秋葉神社半僧坊社

軒にも秋葉神社と同じ細長い多くの房を垂らした注連縄が下がっている。
この社殿には柱に「半僧坊社」の表札が掛かっていた。
半僧坊もまた、実在の修験者で、臨済宗の僧無文元選(むもんげんせん)を海難から救ったり、奉られていた方広寺が火災にあった際、像が消失を逃れたなど、多くの奇跡により、「厄難消除、海上安全、火災消除」などのご利益があるとされた人物。

4半僧坊

半僧坊像が造立された時、仏師の夢枕にひとりの翁が現れて「半僧坊の姿は、(日本の神話に伝わる)鼻の高い猿田彦のようである」と告げたという伝説が残っている。
半僧坊社の覆屋内には珍しい社が祀られていた。

5半僧坊社本殿

木造入母屋造で長い脚を持った社だった。

西南西に向いて祀られた秋葉神社と半僧坊社の左手には南南東を向いた堂が奉られていた。
秋葉神社や半僧坊の覆屋の天地を短くして、ガラス格子戸をガラスの無い格子戸に変更したものだ。

6半城土町 秋葉神社行者堂

しかしこの建物は覆屋ではなく、堂だった。
だからこの建物には注連縄が下がっていない。
そして、まったく予想外なことに、この堂には役小角(えんのおづぬ)二鬼像が奉られていた。
修験者である役小角は役行者(えんのぎょうじゃ)という通称で通っている。
だから、この堂は行者堂と呼ばれる。

7役小角二鬼像

中央の役小角像は石像で、向かって右の斧を持った前鬼(ぜんき)と、左の水壺を持った後鬼(ごき)は焼き物で、3像とも胡粉で着彩されていたらしく、色が残っている。
前鬼と後鬼も実在した人物で、二人の61代目の子孫である五鬼助義之氏が奈良県吉野郡下北山村で、現在も宿坊を開いている。
ここで、秋葉神社を取り上げたのは、この役小角が空海が追っかけをした人物だったからだ。
役小角は山岳修行をし、修験道の開祖とされている人物だが、何よりも弁財天と関わりのある人物だ。
後代の僧行基は役小角が修行をした複数の山に登って、同じように山岳修行をし、その山に寺院を創建して歩いた。
空海(後の弘法大師)は行基のさらに後に、寂れてしまった行基の開いた寺院を再興して回った人物である。
3人の時代は以下だ、

 役小角 634年〜701年 飛鳥時代
  行基 668年〜749年 奈良時代
弘法大師 774年〜835年 平安時代

ここ刈谷市に弘法大師伝承が多いことから、行基の関わった寺院と、役小角が奉られている可能性があったので、調べてみたのだが、行基の開創した寺院は1ヶ所のみ、具足山 十念寺という寺院が存在するのだが、現在は浄土宗に改宗しており、観るべきものは無さそうなので、訪ねていない。
役小角に関しては刈谷市内に少なくとも他に3ヶ所の行者堂が存在しており、弘法大師を奉った太子堂に奉られている場合もあるのだが、行者堂の奉られている神明社と永源寺を訪ねてみる予定だ。
上記のように修験者の三者は神社と寺院の両方に奉られている存在だ。

それはともかく、ここ秋葉神社は廃仏毀釈前には禅宗黄檗派(おうばくは)の寺院であり、東瑞山 十応寺と言い、寺院時代の山門と思われる入り口が行者堂脇に残っている。

8十王寺山門

山門の両脇には白い涎掛けをもらった石仏が並んでいる。
この門前に設置された教育委員会の製作した案内書『十応寺』の内容を以下に追記しておく。

十応寺の本山は山城国宇治の万福寺。十応寺は半城土村の安全と繁昌祈願のために村の鬼門に当たる位置に建立されたと伝えられる。本尊は『聖観音菩薩立像』で『薬師如来立像』『四天王立像』等を旧蔵。
 現在は廃寺となり半城土地区が維持管理にあたっている。

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役行者は現在では単独で祀られていることの方が多いのですが、ここ秋葉神社のように二鬼像が残っている場合もあります。
「鬼」ということで、廃仏毀釈で廃棄された場合もあるのではないかと思われます。

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