御用地遺跡 土偶 39:橘の水神
安城市の上条 弁財天の境内に面して、社務所の脇に一対の石造の門柱が立っているのに気づきました。
門柱の間から両側に樹木の植えられた通路が南に延びており、先にはシャッターの降りたプレハブの倉庫や低木の樹木があるのが見えていた。
何かありそうだという感が働いて、その通路に入って行ってみたところ、通路の並木が途切れると、右手(西側)に丘陵が立ち上がっており、その丘陵上に、向かう細い通路が設けられていた。
その通路に沿って、右手には地蔵菩薩など大小の石仏が並んでおり、通路の先には赤い幟が見えた。
改めて地図を拡大してみたところ、最大に拡大すると「西覚寺」という寺院名が表示された。
ところが現場には寺院らしい建造物は見当たらない。
あまり気が進まなかったのだが、通路を登っていくと、その先にあったのが以下の建物だった。
丘陵の下から撮影したものだが、瓦葺切妻造棟入の堂だった。
赤い幟には「南無薬師如来」という文字が白抜きされ、堂前には線香台が設置され、鈴緒が下がっている。
堂内には壇が設けてあり、中央の厨子には薬師如来、向かって左の大きな仏壇には観音菩薩像と不明の木像、右側の大きな厨子には布袋尊(ほていそん)らしき像が奉られていた。
薬師如来像には身体や病気のことだけでなく、交通安全の効能が書かれた用紙が巻かれていたが、手に薬壺を持ってなく、薬師如来像としては旧い形式の像だ。
薬師如来は空海が嵯峨天皇(さがてんのう)から給預された京都・東寺(とうじ)を根本道場として広まった真言密教の仏なのだが、現在の西覚寺を調べてみると真言宗寺院ではなく浄土真宗寺院となっている。
航空写真で周囲をチェックしてみると、丘陵下の南側に小さな墓地が確認できた。
現場では墓地の存在に気付かなかった。
ネットで調べてみると、西覚寺は「三井山」という山号をもっているので真言宗寺院が浄土真宗に改宗した寺院だと思われる。
浄土真宗は山岳修行とは無縁の顕教の宗派なのだ。
このことから、上条 弁財天が「水分神社(みくまりじんじゃ)」として神社庁に登録されている謎が推測できた。
水分神社はもともと密教の仏である弁財天として三井山西覚寺に祀られていたのが、明治期の神仏分離で、神社として分離されるに当たって、神社庁の推奨する市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)を祀るのに抵抗があって、水源地の地主神である天水分神(あめのみくまりのかみ)を祀ったのだと思われる。
その後、再び水分神社を西覚寺が管理するに当たって、地元に馴染みのある「弁財天」として祀っているのだと思われる。
薬師如来の脇に祀られている布袋尊も弁財天と同じく、七福神の一尊だ。
薬師堂の奉られた丘陵の麓には柑橘系の果実が実を結んでいた。
この地域では、はるみみかんか蒲郡(がまごおり)みかんの栽培が盛んなのだが、大きくて柔らかな葉や直立しないで根元から分岐し、細かな縦シボの多い幹はヤマトタチバナのようだ。
ただ、果実はコウライタチバナのように大きく、ヘッダー写真のように表皮がゴツゴツしている。
しかし、コウライタチバナは日本列島では山口県にしか存在しないので、固体種としての特徴なのだろう。
このヤマトタチバナを撮影したのは12月の中旬のことである。
「橘」と言えば聖徳太子だが、それは聖徳太子が奈良県高市郡明日香村の橘寺(仏頭山上宮皇院菩提寺)で生まれたことによる。
現在の橘寺は聖徳太子を本尊とする寺院だが、「橘寺」が通称になっているのは垂仁天皇(すいにんてんのう)の命により常世(トコヨ)の国に不老不死の果物(橘)を取りに行った田道間守(タジマモリ)が持ち帰った橘の実を橘寺に植えたことに由来する。
寺紋も以下の橘紋を使用している。
常世の国とは海の彼方にあるとされているので、田道間守が持ち帰った橘をコウライタチバナとするのか、日本に古くから野生していたヤマトタチバナを田道間守が探してきた話が盛られたのか。
ただ、橘寺は天台宗寺院である。
ところが、真言宗寺院だったと思われる三井山西覚寺のように薬師如来と橘を結びつける一族が存在した。
室町・戦国時代の武将、薬師寺氏だ。
ただ、著名な薬師寺氏というと、鎌倉幕府の御家人だった摂津国輪田荘地頭
薬師寺貞義ということになる。
摂津国とは現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。
薬師寺氏は橘姓であることから以下の丸に三つ橘を家紋としていた。
薬師寺氏を最初に名乗ったのは薬師寺氏の祖である薬師寺五郎三郎だった。
薬師寺五郎三郎を名乗ったのは平将門追討などで知られる藤原秀郷(ひでさと)のながれをくむ小山氏(おやまし)の後裔、小山政村である。
「薬師寺」姓のルーツは下野国河内郡(現栃木県下野市)薬師寺村が起源とされている。
丸に三つ橘紋を使用していた小山氏が薬師寺村にやってきたのが橘と薬師寺が結びついた原因となったもので、西覚寺における薬師如来と橘の存在とは特に関係はないようだ。
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飛鳥時代に仏教が伝来すると、宮中によって仏教儀礼の導入が行われるようになったものの、神事が優先されてきたのが日本の歴史でした。
しかし、神仏習合が進むと、仏教が主とされ、平安時代から鎌倉時代には仏菩薩を本地、日本の神々をその垂迹(すいじゃく)と解釈する仏教主体の理論が確立されました。
こうした本地垂迹説の確立は江戸時代の儒学理論の影響もあり、逆に神道の教義確立にも影響を与えました。
こうした神仏習合の考え方に最も大きな影響を与えたのが明治政府によって行われた神仏分離政策でした。
この荒波に揉まれたのが上条 弁財天ということができるのですが、こうした出来事は日本列島の各地で起こったことなのです。
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