見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 11:道祖神と役行者

前回、巡った炭焼古墳群に続いて、豊川市内の古墳を巡っていきますが、それに伴なう道程で、気になったものもチェックして行こうと思います。
最初の目的地は穴観音古墳ですが、そこに向かう県道373号線から分岐している県道368号線に「道祖神
(どうそじん)」という表記を見つけたので、観に行くことにしました。

画像1

《県道368号線を辿る》

東に向かって緩やかに下っていく373号線と違って、368号線は分岐の起点から急坂を登っていく、一車線の細い道だった。
坂を登っていくと、60mあまりは左手に住宅が並んでいたが、すぐに森の中に入った。
森の中を90m近く走ると、峠を越え、道は降り始めて130mもしないで森を抜けた。
森を抜けると左右に住宅が現れ、道は急な下り坂となった。
その坂を下り切ると、幅2mほどの川に架かった橋を渡った。
橋を渡るとT字路になっており、道祖神のある368号線を北に向かう入り口に納屋があり、そこに「車侵入禁止」の表示があった。
そこで愛車を川沿いの、その納屋の前に駐め、徒歩で北に向かうアスファルト舗装された368号線を辿った。
住宅は完全に絶え、右手は山裾で森になっており、左手は少し開けており、その先は森になっている。
140m近く歩くと、左手は栗畑になっていた。
この日は8月の上旬のことで、368号線にはまだ若いイガグリがいくつか落ちていた。
栗は右手の山にも自生しているようだ。
栗林のすぐ先、30m以内が三叉路になっており、その分岐点に祠が祀られていた。

1御津町 道祖神

銅板葺切妻造妻入で扉の無い祠内には蓮華座に座した石仏としか思えない石像が一体祀られ、生花が活けられていた。

2御津町 道祖神

直近から覗き込むと、やや長い帽子を被っており、これは非仏教的な要素だが、左手には何か握っており、右手の意味は判らない。

3御津町 道祖神神像

後背にも何か浮き彫りされているようなのだが、認識はできない。
道祖神の姿は男根形から自然石、神像と定型は無い。
実は以下の記事で紹介した奈良県明日香村から出土した石人像も「道祖神」と呼ばれている。

それはさておき、368号線の道祖神はこの三叉路が村の境界であることを示しているようだ。
地図でチェックすると、御津町金野の字東田の入り口に当たる場所であることが判る。
この後、豊川市が道祖神の多い場所であることが判ってくることになる。
それも、長野県安曇野市のように双体道祖神(男女カップルの道祖神)が多いのだ。
道祖神は神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』だという。
新田開発が活発に行われた18世紀〜19世紀に多くの道祖神が造立されたというが、ここの字名の「東田」がそれを裏付けしている。

地図の道祖神の先にある「役行者」も気になったので、観にいくことにした。

2MAP八柱神社

人も車もまったく出会わない368号線は緩やかな登りが続き、260m近く、折れ曲がった道を進むと、役行者に着く前に、2m以上の高さの石垣が368号線に面した石垣と石段の前に出た。
二つ続く石段の上には石鳥居があり、石垣の上には「八柱神社(やはしらじんじゃ)」の社号標。
役行者を気づかずに通り過ぎてしまったのかと思ったのと、八柱神社は愛知県の里山には多い神社で、興味を惹かれなかったのと、山登りの気配がしたので、石段を上がって行くのを躊躇したのだが、鳥居のすぐ先に「役行者」がある可能性もあったので、様子を見ながら少し先まで行ってみることにした。
二つの石段を上がると鳥居の先にはもう一つ短い石段があって、その先は暗い森で見通せなかった。

5八柱神社一ノ鳥居

石鳥居をくぐって、ほぼ直線の暗い表参道を30mほど進むと少し開けた場所に出た。
そこには表参道の右脇に2棟の社を祀った銅板葺切妻造平入吹きっぱなしの覆屋が寺勾配を持つ亀甲の石垣を組んだ基壇上に設置されていた。

6御津町 八柱神社境内社

祠の頭上には社の表札が付いていた。
向かって左が秋葉神社、右は社名が読み取れなかった。
表参道は高さ1.5mほどの石垣の上に上がり、なおも続いていた。

10mも進むと石造明神鳥居の二ノ鳥居があった。

7御津町 八柱神二ノ社鳥居

右手の石垣の上には役行者の磐屋があることに気づいた。
鳥居をくぐると、参道は右手に折れて急坂になっているようで、金属製の手すりが役行者の磐屋の背後を通り抜けている。
役行者の磐屋に上がる石段はその金属製の手すりのすぐ手前にあった。
石段を上がって磐屋の前に出ると、役行者の磐屋は巨石を組み合わせて、丁寧に造立されていた。

8役行者磐屋

本州・四国はほぼ巡っているが、役行者がここまで丁寧に祀られているのは三河だけだ。
役行者(役小角)の本貫である奈良県全体では役行者は軽んじられている気がする。

《役行者と天皇の関係》

修験道の開祖である役行者(役小角:えんノおづぬ)を奉る修験者集団は江戸時代までは天皇直属の組織で、言わば天皇の親衛隊の役割も果たしていた。
しかし、親衛隊としての役割も実際に機能していたのは平安時代までと思われ、武家が政権を取って以後は経済的に修験者集団との絆を堅守することは難しかったはずだ。
しかし、それでも修験者たちにとって、天皇は最高位に祀られる存在であったのは現代に至っても不変だ。
平民が政権を取り、明治政府が樹立されると、天皇から切り離された修験者集団は解体され、多くの者がすでに経済的には自立していた山岳部を中心とした農業者となり、ある者は密教寺院の院外修行者となり、密教寺院継承者もいれば、山岳修行をする者たちの宿坊を経営する者もおり、特技を生かして、呪詛治療者、製薬と薬売り、易者、山岳ガイド、民芸品の製作販売者などになった者もいるだろう。
それはさておき、磐屋の前には自然石で方形に囲った柴燈護摩壇(さいとうごまだん)が設けられていて、

9柴燈護摩供壇

磐屋にも生花が供えられ、現在も役行者を祀っている者は存在している。

磐屋内には高下駄を履き、右手の錫杖は消失しているものの、左手には経巻を持ち、帽子を被った大きな役行者椅像が奉られていた。

10役行者像

◼️◼️◼️◼️
ここまでやって来てしまったので、八柱神社にも参拝して行く気持ちになり、役行者磐屋の背後の石段を登って行きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?