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本刈谷貝塚 土偶 18:土製品

愛知県刈谷市の本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)から出土したものの中で、もう一つ個人的に興味を惹かれたものに、やはり土製品である首飾りのパーツがあった。今回はそのパーツの一つを紹介する。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

本刈谷貝塚からは様々な素材でできた縄文時代晩期(約3,300 - 2,800年前)の首飾りのパーツが出土している。
刈谷市郷土博物館には本刈谷貝塚から出土した3種の素材のパーツ4点が展示されていたが、下記の4点の写真は各実物のサイズの比率を揃えて表示してあり、紐を通す穴の大きさがそれぞれ異なっているのが分かる。

2首飾りパーツ

この中で興味を惹かれたのは土製の樽形をしたパーツだ。

1本刈谷貝塚 土製首飾り

このパーツが4点の中で最もボリュームがあり、表面に記号、あるいは装飾線が沈線で刻まれている。

《陰数と陽数》
樽形土製品の両端には片側に2本、もう一方に3本の並行線が刻まれているのだが、装飾としてみれば、なぜ同数の線を入れなかったのかと疑問に思うところだ。しかし、陰(女性:2本)陽(男性:3本)を表しているとみれば、不思議ではなくなる。
この2本と3本の線が陰陽を表したものとすると、陰陽という考え方は日本列島から大陸に渡ったものである可能性が出てくる。
なぜなら、大陸には「陰陽説」は伏羲(フッキ:古代中国神話に登場する帝王)が創造したものだとする神話があるのみで、伏羲の陰陽説が反映された事物が伝わっている訳ではないからだ。
それに、縄文時代に陰陽思想がシナ地域から日本列島に伝搬したとする記録も無く、これまで日本に陰陽五行思想が伝わってきたのは5世紀から6世紀とみられてきたようだ。
さらに7世紀後半になると、天武天皇によって、日本には陰陽寮(いんようのつかさ)が設置され、明治2年まで維持されたが、シナ地域の歴史に陰陽思想に基づいた高度な役所が存在したという記録は存在しない。

《×》
それはさておき、樽形土製品には中央に3本の平行線で「×」形の沈線が刻まれている。裏面は見えないが、裏面も同じ形の沈線が刻まれているなら、「×」形は男女の交わりを表したものである可能性もある。
「X」の記号はアルファベットに存在するが、それでは各地の古代文字でも見られるかというと、調べた限りでは現代のゲーム内で使用される場合はあっても、古代・現代を通して、文字・記号の一部としても、目についたものは存在しなかった。
一方、「+」は文字・記号の一部としても多く見られる。
「X」が男女の交わりを表した例は、アルファベット小文字の「x」の場合で、「キス」を意味することから、手紙で最後の署名のあとにつけて愛情を示す記号だというのだが、現代で言うならハート・マークに当たるものだ。
日本では文明開化が起きるまで、「キス(接吻)」という言葉は存在しなかったものの、太古の時代からキスはあったと推定されているという。
チンパンジーや猫もキスをするから、人間が古代にしていても不思議ではない。
だが、日本には男女の交わりを表す「卍」が存在し、日本人が「X」の記号を見て、「男女の交わり」を意識することは無い。
日本人にとって「X」は「バツ」であり、下記の様子を見れば、

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「禁止(ダメ)」、あるいは明石家さんまの離婚会見から「失敗(中止)」を意味する記号となっている。
しかし、縄文時代には「魔」を侵入させない呪詛、あるいは持ち主の道徳的な禁忌を表すものであり、自らを律するシンボルとしていたのかもしれない。

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本刈谷貝塚は土製品に3点の、興味深いものがあったが、土器はほとんどが破片で、紹介したいようなものは見当たらなかった。

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