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御用地遺跡 土偶 11:桜の園

安城市 御用地遺跡の南々西6.4kmあまりの場所に位置する中狭間遺跡の南側には亀塚遺跡が存在します。
この遺跡が御用地遺跡から出土した下記後頭部結髪土偶の説明に使用した人面文壺型土器の出土した亀塚遺跡です。

https://note.com/38rashi/n/n33200592f7cc

●後頭部結髪土偶

1MAP亀塚遺跡

以下が人面文壺型土器(撮影:小川忠博)。

1亀塚遺跡 人面文壷形土器

小川町の道路脇に立てられている教育委員会製作の案内板『亀塚遺跡』の「国指定重要文化財 人面文壺型土器」の案内書には以下のようにある。

高さ26.5cm、口径14.8cm、底径6.5cm、胴径(最大径)25.9cm。
昭和52年の発掘調査で出土しました。出土した時は破片の状態でしたが、調査後の遺物整理作業中に人の顔が書かれていることがわかりました。人面文が描かれた土器としては全国で初めての発見で、これが弥生時代の人面文研究の始まりとなり、学士的・学術的価値も極めて高いと評価されています。

人面文壺型土器の出土した亀塚遺跡は北から南に流れる鹿乗川(かのりがわ)の両岸にまたがった遺跡で、現在は右岸が住宅街(東町)、左岸が田畑地(桜井町)になっている。

2亀塚遺跡鹿乗川

上記写真はその右岸と左岸を結ぶ大橋上から亀塚遺跡のある下流川を撮影したものだが、この日の橋のすぐ下流は水深が2cmくらいしか無い状況で、水面下にある砂州に影響を受けた波紋が立っている。
右岸の方が堤防より標高が高く、左岸は逆に堤防より低くなっている。

まずは人面文壺型土器の写真が掲載された案内板が路肩にある東町亀塚に向かった。

3亀塚遺跡

案内板はクランク状に曲がった車道の曲がり脇に設けられたゼブラゾーン脇の三角空き地に立てられていた。
背後の建物は個人住宅で、周囲はやはり個人住宅で埋まっている。
この周辺で人面文壺型土器が出土したということなのだろうか。

この案内板にはもう一点、興味深い土器の写真が掲載されていた。
以下の桜皮巻き小型壺形土器だ。

4桜皮巻き小型壷形土器

案内書には以下のようにある。

愛知県指定文化財

高さ12cmほどの土器を、幅4〜6mmのサクラ属の樹皮で編みくるんでいます。これほど植物質が残るものは希少で、自然科学分析によりサクラ属と同定されたものとしては、全国で唯一の資料です。

製作年代に関する情報が無いが、弥生時代終末期のものという情報が『安城市文化財図録』にある。
壺の口から出ている粘度の板は修復用の粘度板らしく、上記写真の左のカットは修復直前に撮影したもののようで、右のカットでは修復後になっている。
桜皮の帯がまばらなのは、そういう意匠ではなく、残っている帯がこれだけということなのだろう。

現在、案内板の建てられた場所は東町亀塚となっているものの、亀塚遺跡は桜井町と東町にまたがっており、この桜皮を使用した土器と「桜井」という町名は無関係ではなさそうだ。
先に見た、北隣にある中狭間遺跡は丸ごと桜井町に属しており、中狭間遺跡には桜林小学校の敷地が含まれている。
つまり、弥生時代から、この地はサクラ属の樹木が豊富な場所であった可能性があるのだ。
桜皮を使用した製品が現在も盛んに製作されている地域がある。
秋田県の角館(かくのだて)エリア(現・仙北市)だ。
しかも、安城市の桜皮巻き小型壺形土器と同じように桜皮を帯状にして使用した製品が現在も製作されている。
以下のCABAバッグだが、価格は25万円だ。

5山桜CABAバッグ

となると、土器を桜皮で巻いた桜皮巻き小型壺形土器を現代に再現したら、どれくらいの価格になるだろうか。
これほどの高価な桜皮細工ではないが、20年ほど前に仙北市になる以前の角館をツーリングで通過した折に実家への土産として購入した桜総皮茶筒を現在も使用している。

6桜皮 桜総皮茶筒

現在も全く同じものが製作されており、価格は1万円前後になっている。
茶筒としては異例に高価なものだが、外蓋も中蓋も精度が高く、蓋を開けようと引っぱったところ、1気圧で簡単に蓋が開かないことに感動して購入したものだ。
さすがに購入した茶筒も、この20年で桜の材質の乾燥が進み、使い込んだことで蓋の開閉も緩くなってきており、逆に高い日本茶を購入すると付いてくる上等なブリキ缶の茶筒は精度が高まっていて、密閉度では新しいブリキ缶の茶筒には及ばなくなっているものの、その風合はブリキ缶の及ぶところではない。
いや、ブリキ缶の方も5年ほど前のものを使用しようとしたら、塩化ビニール製の中蓋が縮んだのか、ブリキ缶と全く寸法が合わなくなっていた。
やはり、20年も使用できないものだった。

桜皮製品は他にも以下のような大型の茶櫃やお盆、小型の財布や印籠などが製作されている。

7茶櫃

それで、桜井町で桜の木を探してみようとしたのだが、直前の記事で紹介した堀内川の堤防上に桜並木があったことを思い出した。

8西鹿乗川桜並木

中狭間遺跡の脇を流れる堀内川の堤防上に並んでいたのは、まだ若い桜並木だったが、下記写真のように、どの桜も一部(写真中央部)に桜の皮が残されているものの、その上下はすでに皮が剥がされており、皮の無くなった部分の幹にはひび割れが生じていた。

9櫻皮

何を目的に皮を剥いだのかは不明だ。
写真の桜の幹の背後に広がっているのは桜井町だが、その町名の由来を調べてみると、『亀塚遺跡』案内板の西北西570m以内に「桜井戸跡」が残っており、その案内板『市指定史跡 桜井戸跡』には教育委員会の製作した以下の案内書が書かれていた。

桜井戸 古井、藤井、浅黄井(あさぎい)とともに、三河四名井の一つに並び称されます。碧海台地の裾部に位置し、かつては水の湧き出る井戸であったと伝わります。寛保元年と文政2年の桜井村絵図には、この地に井戸の描写があります。寛保元年絵図には「桜井」と記されていることから、江戸中期には、桜井戸が認識されていたことがわかります。
明治20年(1887)の「桜井村地誌材料調査」によれば、「昔、推古天皇の時代に、聖徳太子がこの地へおいでになり、桜の樹の下を杖で掘られたところ、清水が湧き出た。そのためこれを桜井戸というようになった。のちに弘法大師がこの地を訪ねられ、

散れば浮く 散らねば底に 影見えて 春おもしろき 桜井の水

の一首をお読みになった。これは三河国の四井の一つで、桜井の地名はここから始まった。」とあり、この井戸が桜井の地名の由来となったと考えられています。

三河では、すでに刈谷市で弘法大師の関わった井戸の伝承を知ったが、安城市では聖徳太子と弘法大師のWとは😄
尾張・三河に弘法大師伝承は多いが、三河は聖徳太子伝承も多い土地である。
いずれにせよ、この地にサクラ属の樹木が昔から存在したことは確かなようだ。

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安城市内に遺跡と貝塚は数多く存在するが、その出土物に関する情報が公開されている例は、これまでに紹介した御用地遺跡、堀内貝塚、中狭間遺跡、亀塚遺跡の4ヶ所に限定されているので、ここまでとして、次の記事からは古墳を紹介していきます。

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