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麻生田町大橋遺跡 土偶A 57:オオヤマツミとオオヤマクイ

レイラインAGの通っている岡崎市の大平八幡宮の西側の次の場所である安城市柿碕町 和志取神社(わしとりじんじゃ)はすでに紹介済みになっている場所で、その次の場所はレイラインAGの片方の起点になっている御用地遺跡(土偶が出土している縄文遺跡)で、これも紹介済みの場所です。
このページでは御用地遺跡の次と、その次の場所、安城市浜屋町の 日吉神社と刈谷市一里山町
(いちりやまちょう)の山神社(さんじんじゃ)を紹介します。

レイラインAG
(柿碕町 和志取神社/御用地遺跡/浜屋町 日吉神社/一里山町 山神社)
レイラインAG
(柿碕町 和志取神社/御用地遺跡/浜屋町 日吉神社/一里山町 山神社)

●柿碕町 和志取神社

●御用地遺跡

●浜屋町 日吉神社

御用地遺跡の西北西1.4kmあまりに位置する浜屋町 日吉神社に向かった。
3月下旬で快晴。
気温の高くなる正午を狙って、久しぶりに自動車専用道路を使って三河に向かった。
途中から国道1号線に降りて東に向かい、県道76号線に左折して北上し、76号線から左折して路地を西に向かうと浜屋町 日吉神社の表参道の途中に出たので、その参道脇に愛車を止めて、予想外の南にある社頭に向かった。
日吉神社の社頭は大平八幡宮と同じように東西に延びる旧東海道の北側に面していた。
この二つの神社は別の市に存在しており、同じレイライン上に並んでいるのに、双方ともレイラインとは無関係に設けられている旧東海道に社頭が面しているという奇妙な一致を見せている。
そして、浜屋町 日吉神社の表参道も大平八幡宮と同様、南北に長く、大平八幡宮の200m近い表参道には及ばないものの、その距離は160mあまりとなっている。
旧東海道に面した場所には社号標と常夜灯があるのみで、これも大平八幡宮と同スタイル。

浜屋町 日吉神社社頭

この地域の神社の一つの形式となっているようだ。
社号標に刻まれている文字は「(〓社) 日𠮷神社」となっており、「〓」の部分は「郷」の簡体字だろうか。
一般に「吉」の使用される文字が異体字の「𠮷」になっているが、読みは「ひよしじんじゃ」に変わりない。
旧東海道の歩道から細かな砂利を敷いた表参道が始まっているのだが、この神社の社頭と鳥居の間は月極駐車場となっているので、砂利も月極駐車場部分は荒い砂利が敷かれている。
この表参道は1車線幅の通路の左右両側ほぼ全面が駐車場になっており、中央の通路は一般道も兼ねているので、一応参道の機能も持ってはいるのだが、車がくれば参拝者が避けるしかない状況になっている。
そんな状況で、瓦葺の笠木を持つ朱塗りの両部鳥居の直前まで駐車場になっており、鳥居の直前にはトラックが止められているので、鳥居をわざわざくぐる参拝者は居ないと思われ、鳥居は完全に原寸大フィギュアとなっていた。

浜屋町 日吉神社 両部鳥居

上記写真では、この鳥居から奥に延びる参道のすぐ先の参道の両側に4本づつ石柱が並んでいるのが見えているが、これは橋の欄干の原寸大フィギュアであり、右側の石柱の一番手前の柱は橋の親柱であり、「ひよしばし」と刻まれている。
今は廃止されているのか、暗渠になっているのか不明だが、この橋の下には明治用水が流れていたという。
つまり、欄干の柱だけが、モニュメントとして残されている橋なのだ。
ちなみにこの橋の真南150m以内の場所には大水上祖神(オオミカミノミオヤ)などの水神と明治用水建設の功労者4名を祀った明治川神社が存在する。
以下はその記事だ。

ひよしばしを渡ると20m以内で一般道が表参道を横切っている。
最初にやって来て、愛車を駐めてある場所だ。
その一般道から10m以内に白い円柱の車止めが1m間隔で並んでおり、その奥正面50mあまりには拝殿らしき建物が見えている。

浜屋町 日吉神社 表参道

車止めの手前から細かく白っぽい砂利が敷き詰められている。
車止めの間を抜けて、砂利を踏みしめながら奥に進むと、瓦葺切妻造平入で正面を板壁と格子戸で締め切った拝殿前に到達した。

浜屋町 日吉神社 拝殿

拝殿前で参拝したが、境内にはこの神社に関する情報の掲示は見当たらなかった。
ネットには祭神は大山咋命(オオヤマクイ)とある。
滋賀県大津市にある日吉神社の総本社日吉大社の主祭神は以下のようになっている。

西本宮:大己貴神(オオアナムチ)
東本宮:大山咋神

ここ日吉神社の本殿をチェックしようと、拝殿の西側に回ってみると、日吉神社の本殿と並ぶように5段の石段を持つ土壇が設けられており、その頂上に銅版葺流造の境内社が祀られていた。

浜屋町 日吉神社境内社

大己貴神を祀った境内社である可能性が高いと推測した。
しかし、鉄条網の張られた本殿の方を見て驚いた。

浜屋町 日吉神社本殿

本殿は日吉神社らしくない神明造で、鰹木は6本、千木は内削ぎで、いずれも女神を表していたからだ。
社殿が神明造であることからすると、神明社(天照大神)の本殿が流用された可能性がある。
この本殿が日吉神社に流用されたことで、本来の主である天照大神が境内社の方に移された可能性があるのだろうか。

●一里山町 山神社

浜屋町 日吉神社から北西7.1kmほど離れた一里山町 山神社に向かった。
この日は昨年の10月中旬のことで、しかも日没が迫っていた。
社頭は東西に延びる細い路地の北側に面しており、向かい側は私有地になっていたため、正面から社頭を撮影することができなかった。

一里山町 山神社社頭

石造の鳥居は伊勢鳥居で、境内全体に砂利が敷き詰められている。
社号標にはただ「山神社」とある。
鳥居の正面奥には拝殿らしき建物が見えている。

鳥居をくぐると、10mあまり先からアスファルト舗装の参道が始まっていた。

一里山町 山神社 拝殿

拝殿は瓦葺切妻造平入で拝殿に上がる石段が設けてあり、正面は大きなガラス格子窓で覆われ、扉も3種類の格子窓を組み合わせた複雑なガラス戸になっている。
三河地域の拝殿としては特殊な様式で、すでに照明が入っていた。
何となく石段を上がる気にならなくて、石段の下で参拝した記憶があるのだが、なぜかこの特殊な拝殿の記憶がほとんど無い。

境内に板書は見当たらず、ネット上に祭神は大山津見神(オオヤマツミ)とある。
「大山津見神」は古事記に於ける名称で、『日本書紀』では「大山祇神(オオヤマツミ)」、他に「大山積神(オオヤマツミ)」、「大山罪神(オオヤマツミ)」の表記があるという。
オオヤマツミの総本社は愛媛県今治市の瀬戸内海に浮かぶ大三島に存在する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)なのだが、この祭神は社名とは異なる「大山積神」となっている。
ちなみに、神社本庁傘下の山神社10,318社の場合、その祭神は以下の割合だという。

大山祇神=85%
大山津見神=9%
大山積神=5%

神社本庁調べ

1%が大山罪神ということか。
あまり言葉にされない神名よりも、言葉にされる「大山祇神社」という総本社の社名のパワーが強いのだろうと思われる。

●オオヤマツミ(山神社祭神)とオオヤマクイ(日吉神社祭神)

大山津見神と大山咋神はともに山ノ神とされているが、『古事記』や『先代旧事本紀』によれば、以下のようにつながっており、

オオヤマツミ─神大市姫─大年神─オオヤマクイ

大山津見神の曽孫(ひまご)に当たるのが大山咋神。
当然、二神の両親は以下のように異なる。

オオヤマツミの両親=イザナギ・イザナミ
オオヤマクイの両親=大年神・天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)

二神の子に関して、オオヤマツミの子は以下のように知られた神が多いのだが、オオヤマクイの子に関する情報は見当たらない。

《オオヤマツミと記録の無い女性の子
・足名椎(アシナヅチ)
・手名椎(テナヅチ)
・神大市比売(カムオオイチヒメ)
・木花知流比売(コノハナチルヒメ)

オオヤマツミと記録の無い女性の子
・石長比売(イワナガヒメ)
・木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)

オオヤマツミと神大市比売の子
・大年神
・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

オオヤマツミは他にも鹿屋野比売神との間に四対八柱神の神をもうけているが、一般に知られた神は含まれていない。
鹿屋野比売神は別名野椎神(ノヅチ)とされるが縄文土器にはノヅチをモチーフとした装飾のあるものが多く存在し、以下の下原12号址野椎文鉢と呼ばれる縄文土器もその一つだ。

下原12号址野椎文鉢

野椎は一般には蛇体の比売神と説明されている。
オオヤマツミの子供達に関する情報は多いものの、オオヤマツミ本人に関する事象の記録は少ない。

一方、オヤマクイには総本社の日吉大社ではなく、松尾大社、大神神社、賀茂氏に丹塗矢伝承(にぬりやでんしょう)が存在し、『山城国風土記』逸文には以下のような記述が存在する。

玉依日売(タマヨリヒメ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(アニタマヨリヒコ)の子孫である賀茂県主(かものあがたぬし)の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。

『山城国風土記』逸文

個人的な体験ではオオヤマクイは山神であることから、山間部で祀られていることが多く、オオヤマツミは海上から眺望できる山に祀られていることが目につき、必然的に海岸線に近い場所に多い印象がある。
大三島に総本社があることからも、海岸線の大山祇神を祀った山を海人族が自分の船の位置を確認するためのランドマークにしていたのではないかと思われる。

参拝した後、拝殿の裏面をチェックしたのだが、拝殿の裏面には回廊が設けてあり、その中に瓦葺だが流造の本殿が祀られていた。

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賀茂氏がオオヤマクイを別名の賀茂別雷大神(カモイカヅチ)として上賀茂神社に氏神として祀っているのにも関わらず、『ホツマツタヱ』にはオオヤマクイ、カモイカヅチに関する記述が存在しないことから、『ホツマツタヱ』の記録は賀茂氏とは関係の無い氏族の記録であることが推測できます。
賀茂氏には賀茂建角身命
(カモノタケツヌミ)に代表される天神系の一族と三輪系氏族の一派に属する地祇系(ちぎけい:先住民族)の一族が存在するとみられてきましたが、分子人類学によれば、科学的にはどちらも同じDNAを持った日本人であり、天神系を渡来人とする根拠は存在しません。


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