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麻生田町大橋遺跡 土偶A 146:前方部の石室

豊橋市牟呂外神町の八所神社から牟呂外神町(むろとがみちょう)の無名橋に戻り、対岸の北北東90m以内に位置する牟呂町の三ツ山古墳に向かいました。

三ツ山古墳は牟呂外神町の住宅街の三ツ山公園内にあった。
そこに行ってみると、この古墳を中心にした公園を整備するための工事中のようだった。
そして、それに伴って、小生の撮影後に三ツ山古墳の発掘調査が行われたことをこの記事を書いていて、ネット情報から知ることになった。
三ツ山古墳の平面図を見る前に北北西側(下記平面図内「全景撮影ポイント」)から三ツ山古墳を眺めた時、前方後円墳のようだが、前方部はかなり切り崩されており、どっちが後円部なのか、直ちには判らない状態だった。
しかし、三ツ山古墳は全長36mの前方後円墳で、周囲には周溝が巡らされ、古墳上には円筒埴輪や形象埴輪などが立てられていたことなどが確認されている。

片側の頂に巨大な石碑が建てられ、太い樹木はすべて伐採されていた。
樹木が根元から切られていないのは、今後、抜き取るためだろうかと考えた。

住宅と三ツ山公園の間の路地の南側に面して、公園の入口らしき場所があったので、その脇に愛車を駐めて入り口に入ると、「三ツ山古墳」と刻まれたまだ新しい石標が立てられていた。

公園内や公園の周囲の路地には工事業者の車が複数、駐められている。

入り口に近い部分に樹木の切り株が突き出た円墳状の小山が立ち上がっていた。

形は崩されていないようなので、おそらくこの小山が後円部のようだと考えた。
小山の表面は雑草で覆われている。

小山の真南側に回ると石段が設けられており、石段の上に忠魂碑が立ち上がっていた。

後円部全体が忠魂碑の基壇として利用されていた。
石段左右の後円部の表面を見ると、大きな葺石で覆われている。

石段を登って行ってみると、葺石は斜面部分だけ、崩れないようコンクリートで留められているが、墳頂部分は築造された当時の様子が残っていた。

ただ、葺石が残っているのは石段の周辺だけで、赤土が露出している部分は土が流れて、かなり削り取られている。
上記写真奥は新栄町の街並みで、その奥に見える山並みの右端あたりが本宮山だから、この古墳の築造者は本宮山を意識していた可能性がある。
上記写真左手には手摺が見えるが、これが平面図内(水色)の発掘調査部に存在したスベリ台で、小生の撮影後に撤去されたことになる。

スベリ台撤去後に発掘調査部を上空から撮影したのが下記写真だ、

上記写真では後円部にあった忠魂碑も撤去されている。

20年前の発掘調査で発掘された、平面図(ピンク)部分の発掘中の石室が下記写真。

石が平行に綺麗に並べて積まれているのが見て取れるが、石室は後円部に築造されるものとばかり思っていたので、前方部に石室が存在することを知って驚いた。
もちろん、後円部にも横穴式の石室が存在することは確認されているが、
前方部の石室が今回の発掘で、東三河最古の横穴式石室であることが確認されたという。
「最古」ということは後円部の横穴式石室の方は後でできたということなのだろうか。
前方部石室の副葬品として、大刀1、短刀1、轡1、鉄鏃50本以上、そして須恵器の脚付有蓋壺や提瓶、土師器の壺などが出土しているという。

一方、後円噴頂から全景撮影ポイント方向を撮影したのが下記の写真だが、こちら側には整備されていない空き地が残っており、これから住宅で埋まっていくのだろう。

上記写真右端の白いビルの屋上越しに少し尖って見える山が本宮山だ。
かつては、この古墳の周辺に6基の小古墳が存在したという。

後円部墳頂から西南西側を見下ろすと、三ツ山古墳の南西の麓にブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

ブランコの脇には小さな塚があって、石碑が設置されていた。
こちら側の街並みも公園の周囲以外は住宅で埋まっていた。

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なんと!三ツ山古墳の学芸員による詳しい現地説明会がこの年末の12月25日に行われたといいます。もう少し早くこの記事を書いていれば、説明会に参加できたのですが、残念でした。

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