![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50298535/rectangle_large_type_2_7334625d51c806426a61aefb7c0ea922.jpg?width=1200)
御用地遺跡 土偶 30:方墳上の火・水・地
安城市姫塚古墳(ひめつかこふん)の墳丘には墳丘を覆う落ち葉やドングリを撒き散らすアベマキを主とした樹木や石塔があり、姫塚古墳から、そのすぐ南にある崖古墳(がけこふん)にも寄ることになりました。
![●後頭部結髪土偶](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50298607/picture_pc_844b29ac428d6e0f2c6599169833ca2d.jpg?width=1200)
![1MAP姫塚古墳崖古墳](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50298644/picture_pc_c81abe84b6924f9b9ff052a90c623393.jpg?width=1200)
この墳丘に多いアベマキは幹径が25cmくらいまでは樹皮が桜に近いものだが、25cmを超える頃から、下部から縦に亀裂が入り始め、以下のような荒々しい樹皮となる。
![4アベマキ樹皮](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50300256/picture_pc_a6a8beeb68db307be82d80befe52907c.jpg?width=1200)
上記のアベマキはこの墳丘上で最も大きなもので、幹径はすでに30cmほどあり、樹皮にはコルク層が発達しており、樹皮を指で押すとコルクのような弾力がある。
姫塚古墳の墳頂に至ると、2基の石塔が南向きに並べて設置されていた。
![5宝篋印塔五輪塔](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50300667/picture_pc_5a1da1458d0e13df7a2309771ccd263c.jpg?width=1200)
大きい方が宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
小さい方が五輪塔。
宝篋印塔は墓塔や供養塔などに使われる仏塔の一種で、シナの呉越王銭弘俶(せんこうしゅく:在位期間948年〜978年)が延命を願って、諸国に配った8万4千塔の銅塔が原型だとされている。
日本では鎌倉時代初期頃から制作されたと見られており、中期以後に造立が盛んになったという。
姫塚古墳の宝篋印塔は最上部の相輪と最下部の基壇部分が無くなっている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Ehoukyouintou-wiki.jpg
塔身に刻まれている文字は直前の記事に掲載した案内板に紹介されているのは1、2行目のみだが、文字は3行刻まれている。
ただ、3行目は読み取れそうで、読み取れなかった。
白鳳十辛巳年
姫宮墓
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一方、五輪塔は5つの異なる形態のパーツを積み上げた塔だ。
Wikipediaは五輪塔を「仏教でいう五大(地・水・火・風・空)を表すもの」としているが、インド、中国、朝鮮には存在しない塔だ。
『ホツマツタヱ』などの縄文時代の文化を記録したヲシテ文献によれば、日本には5つのエレメントを表すヲシテ5母音を元にした48音が存在した。
日本に仏教が入ってきて、ヲシテの5要素に五大が当てはめられ、造形されるようになったものである可能性がある。
五大 ヲシテ文字5母音(5要素)
空輪 ア=ウツホ…気体
風輪 イ=カセ…下降する冷たいエネルギー
火輪 ウ=ホ……上昇する温かいエネルギー
水輪 エ=ミツ…液体
地輪 オ=ハニ…固体
姫塚古墳の五輪塔は5つのパーツのうち「火輪・水輪・地輪」しか残っていなかった。
ところで、墳頂部には樹木から落ちた比較的重い枝とアベマキのドングリが地面を覆っていたが、墳頂を取り巻く外周部分は樹木に囲われているため、吹き溜まりとなり、軽いアベマキの葉が積み重なり、地面を覆っていた。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50301513/picture_pc_1f5852fff3a7b9041e3eda407a7c8677.jpg?width=1200)
下記写真は墳頂から麓の屋根越しに東側の田園地帯を眺望したものだ。
![7姫塚古墳眺望](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50301545/picture_pc_dfb35dd6ed2bbc7d678d6b13d173080e.jpg?width=1200)
田園地帯の向こう側を南北に流れている矢作川(やはぎがわ)は死角に入っていて見えないが、その向こう岸にあるマキタ(電動工具製造企業)の白くて巨大な岡崎工場が見える。
姫塚古墳を降りて、姫塚古墳の真南20mあまりに位置する崖古墳に向かった。
古墳名は「丘陵の崖の脇に位置した古墳」だからだろうか。
南東側から眺めた崖古墳は姫塚古墳と同じく、段丘の坂道の途中に位置しており、丸太の垣根で囲われ、土留めがされていた。
![8崖古墳](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50302653/picture_pc_251953eff0bbb0c96d0e410e500548fb.jpg?width=1200)
墳丘は枯れ草で覆われ、北西側の背後にはモダンな白い住宅が建っている。
2010年に、この個人住宅建設に伴う崖古墳の確認調査が行われている。
崖古墳は東側から観ると、古墳の体を成しておらず、墳墓であれば、その一部が残っているだけの状態だった。
![9崖古墳](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50302729/picture_pc_79f1750e7adc1f09f172d0089c496fb5.jpg?width=1200)
南側から観ると、すぐ先に姫塚古墳墳丘上に伸びていた松が空に向かって枝葉を広げているのが見える。
![10崖古墳](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50302768/picture_pc_01144d8b9889d78183ebb8300d625ed8.jpg?width=1200)
両古墳の距離が20mあまりということで、当初は前方後方墳の後方墳部分が崖古墳ではないかと疑ったのだが、案内板で姫塚古墳墳は周囲に幅の広い周溝があることが確認でき、前方後方墳の可能性は無いことが解った。
前方後方墳だったとしても姫塚古墳の方形の墳丘の1辺は真南ではなく、南西を向いており、姫塚古墳と崖古墳はつながらない。
『桜井古墳群構成要素調査票』資料-18によれば、2001年の墳丘測量調査以降、3度の調査が行われているが、何と「古墳ではない可能性が高い。」とある。
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これまで観てきた桜井古墳群の古墳はすべて、墳頂に神社が祀られていましたが、姫塚古墳は規模が小さいこともあるだろうが、神社は祀られておらず、石塔のみでした。
崖古墳は古墳ではないと断定はされていないので、このまま古墳として保存されていくのだろう。
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