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麻生田町大橋遺跡 土偶A 12:猿と烏と蛇

豊川市御津町(みとちょう) 八柱神社(やはしらじんじゃ)の境内内に祀られた役行者磐屋から八柱神社の拝殿に向かいました。

1MAP八柱神社

役行者磐屋から森の中を抜ける表参道を30mほど西に進むと、旧い石段の下に出た。

1八柱神社石段

石段は苔が生して萌黄色に染まっている。
両側は森だ。
その石段を20mほど登っていくと、石段の上左右に一対の常夜灯が設置されており、右手に手水舎や社殿が見えてきた。

2石段社殿

石段を登り切ると境内は開けており、広場の北側に社殿が並び、その中央に南向きの瓦葺入母屋造妻入の拝殿が高さ40cmほどの石垣を巡らせた土壇上に設置されていたので、その正面の石段に上がり参拝した。

3八柱神社拝殿

この神社の情報は現場にもネット上にも見当たらないが、社名の「八柱」から祭神は推測がつく。

《柱の意味》

「柱」は『鬼滅の刃』の鬼殺隊最上位の階級の剣士を表しているが、神道では「神」を数える数量の単位を表す言葉だ。
日本の神に数量の単位が存在するのは日本が多神教だからだ。
一信教の世界では神の数を数える必要がない。
柱は縄文時代から竪穴住居を建てる際に建てられてきたが、『日本書紀』推古28年(620)10月条に、「推古天皇の父欽明天皇と母堅塩媛(きたしひめ)を埋葬した古墳を修復し、その後で氏族ごとに柱を建てさせた」とあり、このことが神籬(ひもろぎ)に神を降ろす神道の祭祀の形につながったとみられる。
祭祀が始まった時期は不詳だが、諏訪大社の御柱(おんばしら)は寅(とら)と申(さる)の年に建て替えられる御柱祭が現在も続いている。

八柱神社とは熊野神社と同じく、その総本社に当たるのは、かつて神仏習合下にあった熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)である。
その祭神は明治期の神仏分離以後は以下の八柱とされているが、各八柱神社、熊野神社によって、以下の八柱の別名が使用されている場合がある。

・天忍穂耳命  ・熊野久須毘命
・天穂日命   ・多紀理毘売命
・天津彦根命  ・市寸島比売命
・活津日子根命 ・多岐都比売命

この八柱はスサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神であり、この中で土偶と関係の深いのが市寸島比売命だと考えている。
徳川家のお膝元である尾張・三河では天台宗系の山王神道が盛んであった。

拝殿の西側に廻ると、拝殿の裏面には高さ2.5mほどの石垣が組まれ、石垣上に檜皮葺流造の本殿が設置されていた。

4本殿

この神社も山の傾斜を利用して祀られたものだ。

拝殿の西側には5社の境内社を4区分された異例に立派な連棟社が祀られていたが、5社の社名に関する情報が見当たらない。

5連棟社

拝殿前の広場の片隅には伐採された樹木に渋い虹色をしたコフキサルノコシカケが繁殖していた。

6コフキサルノコシカケ

サルは山王神道の神使である。

拝殿脇の連棟社を観に行こうとした時には広場に出ていた1.5mほどのカラスヘビと遭遇した。
カラスヘビはあわてて、裏山の笹薮に逃げ込んだので、追いかけて撮影した。

画像8

カラス(八咫烏)は熊野三山の神使である。
そして、ヘビは市寸島比売命の神使である。

意外にも3つの神の使いの表徴と、関係の深い八柱神社の境内で遭遇することになった。

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八柱神社を降り、368号線を下ったが、探し物をしながら登った行きと違い、くだりでの徒歩では、道路沿いに残された旧い石垣などから、この地域を開発した先人たちの大きな労力を感じさせられました。


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