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山梨県に天野姓が多い理由を考えてみた【研究ノート:天野氏】

今回は単純な疑問の検証。

天野さんは何処にたくさんいるのか

実は、親戚以外の天野さんには実際にお目に掛かったことがない。学校にも職場にもご近所にも、知っている範囲には天野さんはいなかった。

2007年10月までに発刊された全国の電話帳に掲載されている約2,338万世帯の情報をもとに、分布・ランキング情報を掲載しているサイト「写録宝夢巣」によると、天野姓が日本で一番多いのは愛知県の2,444件で、愛知県内で81番目に多い姓である。

次いで多いのが静岡県の1,754件(76位)で、その次が東京都の1,399件(179位)となる。ちなみに全国では16,784件で241番目に多い姓らしい。

東京都に次いで天野姓が多いのが、山梨県の1,320件である。何と県内21位という多さだ。

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愛知(それも三河)や静岡に天野姓が多いのは、犬居天野氏や三河天野氏の存在を考えれば当然のことで、何も不思議はない。

天野氏の支流としては他に、能登天野氏や安芸天野氏が知られるが、彼らが活躍した石川・広島・山口の天野姓の件数は、3県の中で最も多い広島県でも山梨の半分にも満たない513件だ。石川を含む北陸3県は全て2桁しかいない。

山梨県。旧国名は言わずと知れた甲斐国であり、武田氏が治めていたのは日本人なら当たり前に知っていることだろう。武田信玄は有名すぎる武将だ。

何故山梨県に天野姓が多く存在しているのか。こんなご時世なので、現地の聞き取り調査などは全くなしで考えてみる。山梨に知り合いもいないし。

犬居天野氏と甲斐

さて、遠江の北西に位置する犬居郷は、西は三河、北は信濃に近く、諏訪を越え塩尻と遠州相良港を結ぶ秋葉街道(信州街道)が通過し、さらに遠江と駿河を結ぶ「山中の東西の道」が通過する三信遠の交通の要衝であった。

そのため、犬居城主であった天野氏の去就は、周辺の有力武士である今川・北条・武田・徳川にとって注目の的であった。

当初、犬居天野氏は10年以上に渡って今川氏の三河侵攻に従った。しかし桶狭間の戦いで今川が大敗したのを機に、惣領家の安芸守景泰と子の元景が今川に背いて所領を没収され、庶流の宮内右衛門藤秀に跡職が配された。

藤秀の子・宮内右衛門景貫は武田氏に従属し、家康に幾度も攻められて、天正4(1576)年、遂に犬居城を放棄して甲斐へ落ちたという。ここで山梨県域に行った天野氏が確認出来ることになる。

だが、落ち延びた景貫の子孫だけでは説明の付かない数の天野姓が、山梨には存在している。

景泰・元景父子については「今川に背いた」ということ以外の具体的なことは判らず、没落後の行方も定かではない。が、武田信玄に内通していたことを示す文書があり、景貫以前に甲斐へ落ち延びた可能性もあろう。

信康自刃事件

丁度同じ頃、天正7(1579)年、三河では家康の長男・信康が切腹に追い込まれた。これにより、信康家臣団は事実上解体となり、切腹した者、蟄居した者、逐電した者、後に赦免された者、様々であった。

三河天野氏の中には家康の命により信康に仕えていたものが多くあったようである。
岡崎五人衆の一、天野清右衛門貞有の子・清右衛門(又太郎)貞久は、岡崎城主となった信康の家老を勤めていたが、信康処分後は蟄居し、そのまま亡くなったようである(『寛政譜』による。『士林泝洄』には蟄居の記述はなく、信康に仕えた後に幕府に仕えたことになっている)。

平岩親吉と天野氏と甲斐

貞久の子・清右衛門(藤九郎)正勝は、初め父の従兄弟(祖父の甥)にあたる平岩主計頭親吉の元に頼り、のち尾張徳川家の祖・義直(家康九男)に仕えた。平岩親吉を頼った天野氏は他にも複数確認出来る。

平岩親吉は家康と同い年で、人質の頃より付き従ったいわば腹心の部下であり、信康元服後、傅役として信康を補佐していた。信康処分後は蟄居謹慎したが、後に許されて直臣に復帰している。

家康の甲斐平定後、親吉は家康の命により甲府城の築城にかかり、甲斐郡代となった。家康の関東移封に伴い、天正18(1590)年には厩橋(後の前橋)三万三千石となるが、慶長6(1601)年には甲斐に戻り、甲府六万三千石となり甲府城に在城した。

親吉には嗣子がなく、家康は自らの八男・仙千代を養子にやったが、仙千代は慶長7(1602)年に僅か6歳で他界してしまう。その翌年、仙千代の同母弟である義直(五郎太丸。家康九男)が甲斐二十五万石に封ぜられると、親吉は幼少で駿府にいる義直に代わり、甲府城代を勤めた。

慶長12(1607)年に義直が尾張藩主となると、親吉は附家老として尾張に移り、犬山藩主として十二万三千石を領した。

しかし、親吉に付いていた天野氏の中には甲斐に残った者がいたのではないだろうか。

尾張へ行かない選択

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天野氏の中には尾張藩に仕えた者も確かに複数確認できる(実際、その子孫という方が名古屋におられるようだ)。が、愛知県内の天野姓の多くは岡崎市をはじめとした三河地方に分布しており、親吉が領した犬山市には少ない(12件)。

天野氏の中には、親吉の後、成瀬氏や鳥居氏に仕えたとされる家もあるが、成瀬正成は甲斐国内に二万石を領していたし、鳥居元忠は郡内地方(都留郡一帯)を家康の関東移封まで治めていた。元忠の三男・成次は甲斐谷村藩(郡内藩とも)一万八千石を与えられ、義直の附家老となっている。

秋元氏が谷村藩主となると、それまで秋元氏に仕えてきた譜代家臣に加え、旧鳥居系家臣や谷村譜代の家臣も取り立てられたという。

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山梨県内で天野姓が特に多い地域は、鳥居氏、次いで秋元氏が治めた谷村藩に重なる。谷村城があるのは都留市、天野姓が県内で最も多い大月市は北隣である。谷村藩以外で多いのは、国中地方の峡東地域と甲府だ。つまり、山梨県の東南部に多い。

帰農した天野氏

さて、山梨県の天野さんで有名な人物に、笹一酒造の創業者で山梨県知事(4期)となった天野久がいる。久は明治25(1892)年、甲州市塩山下於曽に生まれた。生家は江戸時代には村役人を務めていた名門旧家であったが、久が生まれた頃には既に斜陽であり、家計の助けのために進学を諦めて21歳で近所の田辺酒造に奉公したという。

塩山には、江戸時代に村役人だった天野家があったのである。甲斐へ行った天野氏の中に、帰農した者が一定数いたのだろう。

明治に入り、平民苗字必称義務令(明治8(1875)年)が公布された。この際、庄屋とか名主といった地域の有力者の名字をもらう例が全国的に見られる。山梨でもそのようなことがあり、天野姓が増えたのではないだろうか。

以上はあくまでも仮説である。
由来をご存知の山梨の天野さんがいらしたら、是非ご教授いただきたい。

ちなみに清水

尚、甲斐へ落ちた景貫の次男とされる小四郎景直は、人質として武田家に預かりの身であったが、武功を挙げて蒲原城(静岡市清水区)代になったという。
犬居落城の後、北条氏照の下に身を寄せ、佐竹軍等と戦ったというが、その後は出家して日光と名を改め、蒲原城代の時に自らが開山した秋葉山本坊峰本院(静岡市清水区)の第一世住職となった説(峰本院沿革による)、秋葉山本坊峰本院を頼って清水草ヶ谷(静岡市清水区草ヶ谷)に住み帰農した説がある。尚、峰本院の現在の住職も天野姓のようだ。

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静岡市清水区は、静岡県内で最も天野姓が多い所である。

むすびにかえて

分布を見ていて、「天野さんは富士山が見える範囲に住みたがってるんじゃないか」と思った。岡崎市と新城市の境・巴山からは富士山が眺望でき、中山岩戸の天野の住んだ中山庄は巴山付近に発する乙川の流域だ。犬居郷の秋葉山からも富士山が見えるし、その秋葉山の秋葉山本宮秋葉神社の建つ地にあった秋葉城は、天野氏の城である。

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天野氏発祥の地である伊豆の国市からは、勿論富士山がよく見える。

DNAレベルであの霊峰に恋い焦がれているのでは、と思うのは、私自身が富士山に恋しているからだ。

天野氏が最終的に駿河を経由して江戸で天下を取った徳川氏に従ったのは、その所為かもしれない。なんてね。


※本記事中、姓・氏・名字・苗字はその意味を区別していない。

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