女ともだちの文通 8


沙也加

文章を読んだよ、とてもよかった!
前に話してくれた内容も時系列が綺麗に整理されていて、こうだからこうだったんだね、と改めて理解したよ。
私の文章も入れてくれてありがとう。私にとっても沙也加との文通は、今でもそうだけど、すごく意味のあることだった。当時、私は私で孤独で、このまま行き詰ってどこにもいけないような気持ちを抱えて生きていたよ。独りでいると思い出したように引き裂かれるような胸の痛みがやってきた。新しい土地に住んでも新しい自分にはなれなかった。いつまでもいつまでも私は私の弱さに囚われ、何度も何度も過ぎて行った日々を、去っていった人たちのことを考えた。
そういう日々の中に文通の趣味(?)があって、それはキラキラときらめいていたよ。
文字に起こすことで気持ちも整理できたしそれに返答がかえってくる喜びもあった。
またさらに、私に対しても沙也加が心境をつづってくれるのも嬉しかった。そういう時間だけは、私は何も失わずに済む気がした。都会の日々で、私は自分自身が失われていく気がしていたからね。自分ではない何かを常に演じているような、けど、手紙を書くときは私は私に戻れた。
「二羽の鳩」に話だけど、やはり愛は、鳩が一羽ではなく二羽であることと関係があると思うの。二羽の鳩はそれぞれの持ち主を探している。あのね私が当時、愛を差し出すのは勇気がいることだというようなことをつづったけど、それは、私が鳩をあげた相手が、その相手の鳩をくれなくても怒らないということなの。たとえば、うちの娘はまだ人を愛するという感情を知らないと思う(愛するという気持ちはすごく高度な感情だから)。けれど私は娘を愛している。だから私の二羽の鳩のうち一羽を娘に贈る一方で私は相互に愛し合うことを娘に求めない。仮に娘が鳩を私にくれなくても、私は怒らない。見返りを求めないっていうのかな。それって思い切った行動だよね。人って知らずに見返りを求めている生き物だと思うから。
ところでインフェルノ続編もあるの?笑
また沙也加の文章読みたいな~。まずはお元気で。


とある漫画家がX(旧Twitter)でかの有名なインディージョーンズシリーズについてまとめていました。
3作目で聖杯を発見するも手に入れられなかったインディーは旅を共にした父に問います。
「親父は何を見つけた?」 すると父は「輝きをさ」
この返事を、漫画家は
”宝が手に入るかどうかではない。それを求めた過程にこそ人生の価値が、輝きがあるのだ”と解釈したようです。
自分も新作以外は一度見たことがありますが、改めてこのシーンを見返してこの解釈には納得しました。
というのも、自分が愛する西遊記もテーマが共通するからなのです。あの話も、本当は悟空が筋斗雲で天竺までひとっとびして経典を手に入れられればそれで済む話なのです。悟空本人もそれを玄奘に提案したくらいです。
ですが玄奘は言います。
”この旅は経典を手に入れられればいいというものではありません。その間に待ち受ける苦難を乗り越えて手に入れるからこそ価値のあるものなのです”
西遊記は天界での罪を償う為の旅であるという点では、純粋な探求心から旅をするインディージョーンズとは異なる部分もありますが、大事にする根本は同じであると考えます。

Mは一番新しい手紙で、自分がMについて心境を綴ったことについて、そうした時間はなにも失わずに済んだと言いました。そうです、自分たちが訪れた場所、手紙、肉体はいつか失われます。
でも、お互いに手紙以上のものを受け取っていたという真実は消えません。なぜなら自分たちの存在を繋ぐ存在がいるからです。それはきっと娘ちゃんであるだろうし、いつかの自分の子どもであってほしいと思います。
それが宝以上に、価値であり、輝きであることを信じます。
体に気をつけて。いつもありがとう。

沙也加

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?