ある人

ある人は、高いところが苦手でした。
階段を上ることさえ怖いのです。
だからお部屋は、一階のお部屋にしました。
そうして、しばらくして引っ越していきました。

ある人は、人付き合いが苦手でした。
友達と呼べる人は、一人もいませんでした。
一階に住み始めてからまもなく、壁の隙間から、小さな虫が顔を出しました。
ある人に、はじめて友達ができました。
そしてまた、しばらくして引っ越していきました。

ある人は、虫が苦手でした。
その出で立ちがどうしても受け付けないのでした。
だから、住み始めた一階の部屋の壁の隙間から呑気に顔を出した虫に、たいそう驚きました。
動転したその人は、殺虫剤を撒き散らしました。
そしてまた、しばらくして引っ越していきました。

ある人は、隙間が苦手でした。
カーテンの隙間、棚のドアの隙間、家具同士の隙間、、
誰かが覗いているようで、怖いのです。
住み始めた一階の部屋で、特に嫌だったのは、壁の隙間でした。
気になって、気になって、しかたありません。
だから、部屋中の穴という穴を、塞いでしまいました。
そしてまた、しばらくして引っ越していきました。

ある人は、物音が苦手でした。
何の音なのかわからないと尚更、、
住み始めた一階の部屋の壁の外から何かが動くような音がしたときも頭を抱えましたが、何よりも我慢ならなかったのは二階からの音でした。
二階にはずっと誰かが住んでいるようで、話し声のようなものが聞こえるのですが、内容まではわかりません。
ただ不思議なのは、話し声はいつも一人分ということでした。
とにかく物音が苦手なある人は、その不気味な話し声をどうしても我慢できずに、部屋を防音にしてしまいました。
そしてまた、しばらくして引っ越していきました。

ある人は、無音が苦手でした。
寝る時は特に、何か物音がないと、眠ることができませんでした。
まさか、住み始める一階の部屋が防音とは知らず、ある人は、寝ることはもちろん、何をするにも、そわそわ、そわそわ。
いてもたってもいられず、ある人は、部屋を飛び出しました。
そして、しばらくしても、戻ってきませんでした。

ある人は、暗くて狭いところが苦手でした。
得体の知れない圧迫感がどうも嫌だったのです。
一階の部屋も二階の部屋も、誰かが住んでいるようで住めなかったので、外で暮らしていました。
雨風を防ぐため、夜は小さな屋根がある路地裏や、公園のトンネルで休んでいました。
でもそこは、とても暗く、狭い場所でした。
満足に休めないと思ったある人は、いつも明るい場所を目指して歩き始めました。

ある人は、背後からの物音が苦手でした。
そこは常に灯りがあり、明るい場所でしたが、背後から迫る音に慣れることはありませんでした。 
その日は気持ち良く晴れ、ある人の気分も比較的ゆるやかでした。
だから気づかなかったのです。
背後に人がいることに。
「ねえねえ!」
突然話しかけられ、驚きのあまりある人は返事もせず、振り向きもせず、その場を走り去ってしまいました。

ある人には、苦手なものなんて、ありませんでした。
どんなものにも、好奇心旺盛でした。
ふと見ると、とても魅力的な人が前を歩いているので、思わず声をかけました。
「ねえねえ!」
すると、その人はビクッと体を震わせ、そのまま返事もせず、振り向きもせず、その場を走り去ってしまいました。
ある人は、途方に暮れました。
これまでに誰かにそんな反応をされたことは一度もなかったので、とてもショックだったのです。
苦手なものがなかったある人は、人付き合いが苦手になってしまいました。
気づくと、アパートの目の前にいました。
どうやら空きがあるようです。
ある人はそこで、誰とも会わず、ひっそりと暮らしたいと思い、二階に住み始めました。
しばらくたったある日、壁の隙間から一匹の虫が顔を出しました。
人付き合いが苦手になっても、好奇心旺盛だったある人は、虫と友達になりました。
虫が自分のもとを訪ねてくる度に、たとえ言葉が返ってこなくても、ある人は話しかけて楽しむのでした。

ある人はやっと、明るい場所にたどり着きました。
そこはいつも灯りがついていて、誰かがいました。
ある人は高いところが苦手で
ある人は虫が苦手で
ある人は隙間が苦手で
ある人は物音が苦手で
ある人は無音が苦手で
一人として同じ人はいませんでしたが、そこは誰もが、"苦手"を共有できる場所でした。
ほんとうに、明るい場所でした。

ある人は、背後のものから逃げ続けていました。
でもちょっと疲れてしまい、公園のトンネルで休もうと覗いたところ、別のある人が腰をかけ、小さな虫とお話をしていました。
別のある人は、見られたことでかなり動揺しているようでしたが、ある人はその慌てぶりを見て、くすっと笑ってしまいました。
その様子を見た別のある人も、少しきょとんとしてから、同じように、くすっと笑うのでした。
二人目の友達ができたある人に出会えた目の前の出来事を、ある人は嬉しく思うのでした。
二人を包むトンネル、そのトンネルを包む夜が、更けていきます。

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