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走りながら考えるのだ、丸腰で。Vol.1

#Bookcoverchallenge  「思いやり」という暴力

前の日に眠れず、起きたら一日越してました。
川喜田さんからまわってきた#Bookcoverchallenge 2冊目。

「思いやり」という暴力
中島義道
2016 
株式会社 PHP文庫株式会社 PHP文庫

p165
「思いやり」はエゴイズムの変形である
竹内靖雄は、『日本人の行動文法』(東洋経済新報社)において「思いやり」を 「相手の立場、感情を想像して攻撃抑制的な態度をとること」と記述したうえで、 とこれはエゴイズムの変形であると断じている(以後、竹內に言及した引用はすべて同書からのものである)。
「思いやりは「自分本位」から出てきた行動文法(ソシオグラマー)である。「自分が他人 からいやなことをされたくないから、他人にもそのいやがることをしない」の であって、思いやりは自己利益の追求という原則に矛盾しないどころか、利己主義の変形なのである。」
p4
わが国の人間関係において、最も重視 されるのは、「他人を思いやる」ことであり、そのためには「本当のことを言わな いこと」である、この「公理」とも言える大原則に、私は(タテマエ上の「哲学 者」として)肌に滲みるほどの違和感を覚えたのである。これは、言葉(ロゴス) を大切にしない文化であり、いや言葉(ロゴス)を潰す文化である。

日本ではわかりづらい「剽悍(ひょうかん)の気風」

この本は「なぜ私が日本的社会で生きにくいのか」よくよくわかった本です。そして、宮古の人が「剽悍(ひょうかん)の気風」(明治時代探検家の笹森儀助が著した言葉」と感じるのかもわかった気がする。

剽悍の気風:すばしこく、しかも荒々しく強い・こと(さま)。

郷土史家の仲宗根将二氏は『剽悍(ひょうかん)の気風』を、アララガマとワイドーに代表されるように「猪突猛進(ちょとつもうしん)の面と協調性の相反する性質が表裏一体の気風である」と書いています。

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「自分が他人からいやなことをされたくないから、他人にもそのいやがることをしない」という衝撃的な言葉(当社比)

付け加えれば、わたしたちの世代(1980年代を思春期で送った層)は、日本文化と沖縄文化(アメリカも入る)と宮古文化が入り混じって、どの文化も拮抗してカオスだった。

なので、私もだけど、友だちもチグハグだった気がする。自分でもどちらに寄っているか、あまりよくわからなかった。(私自身は、今は、島、アメリカという祖母や母の影響が強いとわかるけど)。

私は、島を出てから、宮古の同級生から言われた言葉を今もよく思い返す。彼女はとても日本的な教育を受けた人だという印象がある。

「自分が他人からいやなことをされたくないから、他人にもそのいやがることをしない」

私からすると、とても驚きだった。宮古の人で、島外に出た人で、素直にどのくらいの人がこの言い方ができるのだろうか。

「自分で相手の嫌なことを勝手に決めてしまっても良いの?」

島を出てから、私は「島と同じ文化の中を生きていない」と、島を出てから打ちのめされるほどに感じているのに。だからこそ、簡単に自分の嫌なことと人の嫌なことがイコールとは思えなかった。

そういうことを、彼女は感じていないようだった。普通の優しい友だちだったし、本気で言っていた。

私は、事あるごとにそのことを思い出す。今の考えは以下のあたりで落ち着いている。

相手に辛辣なのは最高級の親しさ(当社比)

そこに、すべての人が全体を配慮し、自己の痛みを語らず、他者との差異を語らない淀んだ和やかな空気が流れる。この空気の中で、恐ろしいことに、各人は自分の考えをもたなくなる。責任をもたなくなるのだ。
この空気の威力は圧倒的である。
中島義道 「思いやり」という暴力

空気の威力とは、今でいうと同調圧力というものかもしれない。場に責任があって、自分にはないというような。

それであれば、ごくごく小さな単位である友人同士の場も同じ気がする。このセリフが来るってことは、何を答えて欲しいと思っているんだろうか、とか。

私は他人が嫌だと思うことは、私には心底わからないと思っている。理由は簡単で、私は相手になりえないから。

想像力の欠如とはちがう。だいたいのことはわかるのだけど、長年の友人でも微細な心の動きまでは追えない。

同じバイオグラフィー、文化背景、思想構造を持たない(拡大的にとらえると)異文化に接した場合、自分の想像力のなかでは収まらないと思っているからだ。

なので「相手が言ってもいないのに、勝手に相手の快や不快を決めつけるのは、それこそ失礼かもしれない」と思っている。なので、親しくはするが、最初から距離を詰めるようなことはしない。

なので、何十年たっても、わからないことが山ほどある友だちとも友だちだ。

距離を詰められると、相手にとって辛辣であろうことも言う。でも、それは、最高級の親しさでもある。

違うことは違う、と言え、わからないことはわからないと言う。わからないので質問もする。日本では「思いやりがない」と思われることも多い。

私にとって「私ならこう思う」と言える関係が友だちだからだ。

ただ愚痴を聞いてもらいたいと思うなら、私ではなく別の人のほうがいい。相づちマシーンとかあったらいいかもしれない。いや、そんなアプリも今や結構出ている。

宮古の友だちは「愚痴らせて!」と最初に言うので、聞くこともできるのだが、問題解決をするつもりもない愚痴を聞き続けるのは難しい。

私は、きっと思っていることを伝えるだろうし、それでは相手の気持ちは晴れないだろう。それで、何度か泣かれたことがある。

それが宮古的か、個人的なのか、私にはちょっとわからない。でも、多分、相当宮古的なんだと思う。

続く

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