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走りながら考えるのだ、丸腰で。Vol.2


「空気を読むこと」で対話や関係が浅くなる?


前のnoteからの続きです。

絵はnoteからの借り物ですが、なんか宮古のおじぃとおばぁで脳内はこんな感じの人たちがいる。

私は年寄り夫婦って、楽しそうだなぁと昔から思っていました。
noteは、絵が借りれたりして、楽しいです。ほんと、良いプラットホームだわ。

私は、自分の感情を言わない人を慮って、自分の意見を変えないようにしている。嘘を言っているようで、座り心地が悪いからだ。お尻がムズムズする。

相手の気持ちを勝手に判断して、相手に合わせた嘘っぽい行動するのは「思いやり」ではなく、相手を子ども扱いというか尊重していないように感じるから。余計な配慮は、大きなお世話だったりするし。

おべっかとか、ヨイショとかが苦手なのに似ている。

嘘を言うくらいなら黙っている。すぐに判断できないこともあるから。まずは観察。

私が意見を変えるときは「あなたの話を聞いて、そのいう方向もあるのだなとわかったよ」と言うし、感謝の言葉を伝えようと思う。

人の欠点や間違いを指摘するのは、勇気のいることだし、言ってくれることはとてもありがたい。

ただ、受け入れるのは、難しいときもある。話していることの土台が違った時や、自分のなかでそのトピックがまだ深まっていない時。

でも、違いをセンシティブに考えている人であれば、時間をかけて話すことができる。厳しい論点でも楽しい会話にすらなる。


最近気になった菅官房長官のニュース

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「違いをセンシティブに考える」って、相手を最上級に尊重しているんだし、こうやって話をしている時点で、共通点はそれ以外にもあるという前提がある。

でも、なぜか「違いをセンシティブに考える」ことが正誤に結び付きやすいのが日本社会かなと思う。なんでみんないっしょじゃなきゃいけないんだろう。非常時以外は、力は合わせなくても良いのがエコだと思うが、笑。

「違いをセンシティブに考える」という意味ではこのニュースはちょっと驚いた。

なんで良い話になってるんだろう・・・。

私は、おぉ、日本っておおらかなのか、馬鹿なのか、もうわからない。というか、お上がやれば何でも良いってことなのか、マスクが売れれば良いってことなのか?いや、まだわかんない。

立ち止まって、なぜこの人はこんなマスクをしているのだろうか、とは考えないの?

自分が好意をもっているから、何をやっても許される、という心理はモラハラと同じじゃん。私、アイヌの人じゃないけど、私だったら嫌かな。

細かすぎるよ、宮国さん、と言う人もいるとは思うけど、ちょっといくらなんでも鈍感じゃないの、と思う。

パリ万博とか人類館事件とか、人を見世物にするという感覚。この感じはその系譜に乗っかっていると思う。当時も日本では、それは意外と好評だったみたいです。感覚変わってないなぁ。100年ちょっと前である。

19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。

この数年、こういうことは、世界的に話題になっていると思っていたのですが、なかなか日本には浸透していないものなんですね。

これが良くも悪くも、日本的な差別のカスタマイズなのかもしれない。

この本から抜粋したのだけど、私も同じ意見なんだよなぁ。

例えば、「弱者保護」は二十世紀後半の先進国では、共通に了解されている事柄 のように見える。先進国は、少数民族や身体障害者あるいはさまざまな社会的マイ ノリティに対する差別問題には、同じようにセンシティヴに取り組んでいるように 見える。たしかに、共通の局面もあろう。しかし、その実施の仕方については欧米諸国とわが国とでは恐ろしいほどの差異があるのだ。



最前線で、世間の風にあたって、カンのいい人、東野。

ほとんど、ライターに言わされた感はあるけど、それにしてもこれは面白い記事だった。

日本では「あなたはどう思うの?」と聞くと「自分を否定されたような気分」なる男性が多い印象がある。たぶんどんどん変わっていくんだと思うけれど。

こういうことは、議論や対話への糸口だし、その人が普段言っていることが補強されるとも思っているので、話題をふっているが、自分=社会という自己肥大化してない限りは、自分のことと社会のことは、ある程度切り離されているはずだ。自分は社会の一部でしかないからだ。

だとすれば、個人的な意見があるだろう、と思い、聞くのだ。女性はそれに比べ、嫌悪の前に「なんでそんなこと考えるの?」というリアクションなので、実は対話の糸口になりやすい。

今、こういう傾向があるんじゃないか、とこのような話をすると、ある世代以上の一部の男性は、自分の価値観が壊されたように感じるのかもしれない。

口では「女性が強い」といいながら、男性の七割近くに報酬を抑えられていること、先進国としては世界に類を見ないワンオペ育児、には見向きもしない。これは、実は男性の弱者にもつながっている問題なのに。

だって、長時間労働や過労死ってそうでしょう。

俺たちも苦しい、っていいうのは、わかってるんだけどな。

マジョリティであることを良しとしない傾向も感じる。というか、マジョリティって、自分が選ぶわけじゃないので、いいと思うんだけど。

マジョリティが悪だと考えることよりも、マジョリティの一部の人がマイノリティを追い詰めていくっていう話で、すべてのマジョリティがそうではない。その人がマジョリティの立場だから責めているわけでもない。

社会=自分と同一視し過ぎだと思う。そして、それが私にとっては「空気読め」に近い。

自分が思っていないことを言語化されること、質問されることを嫌う。なら、説明してくれよ、と思うのだが、そこは無視だな。いちばん大事なところなのに。私が喋っているから、私の感想であることを完全に忘れている。

「なぜ、そう思ったの?」「よくわからない」と素直に言ってくれれば言葉を続けられるが、「空気読め」は、聞く耳は持ちませんという意思表示。

愛の反対は、無関心なのにな。男は黙ってとか、我慢しろとか、泣くなとか、平静でいろ、感情を出すな、というサムライ真っ青な価値観で育てられた被害者でもあるのに。

対話をシャットアウトするのは、すでに関係性が破綻している。

「空気を読むこと」で対話や関係が浅くなるのは、私は好みじゃない。それなら、近くの喫茶店で知らない他人とおしゃべりでいい。

友人だから、対話しているんだけどな、と思うのだ。

そして、ヨイショばかりしている人、他の人の悪口(根拠のない妄想、本人に言えない)、自分の考えに同意してもらいたいだけの人、とかは、もしかしたら友人としても対話する気がない人かもしれない。

その人は私に本音が言えないとか、言語化できるまでじゃないのだからそっとしておくということでもある。

今の和は、なんだかとても脆い「和」

「空気読めよ」と言われたことは二度三度ではないので、日本ではあえて空気を読まないと言う選択をする人は少ないのだろうと思う。

「和」という言葉で美しくまとめているけど、それはとても脆い「和」のような気がする。「絆」とかもそうかな。同調圧力をも生み出しかねない。

本来は、「和」や「和やか」って言葉は、本来素敵な言葉なのに。

「空気読め!」とあとからいわれる時は、だいたい私が人に質問している時。謙虚にせよ、という圧力に近い。

おとなしく黙っているのが、その人の「女性らしさ」なのかもしれないけど、そんな女性らしさありきでいくからJK,JCとか役割分担的な性のカテゴリーが繁盛するのだよ、とも思う。

「やまとなでしこ」とは、日本女性の清らかさ・美しさをたたえて言う語らしいのですが、これが最上にあるってことは、議論は下劣なことなのかもしれない。

近代的な家屋に住んでいて、近代的な暮らしをしているわたしたちなのに、中身は文明開化していない、それどころかいいようにねじまげた文明開化のような気がしてならない。

それなら、なんかもっともっと昔のほうが良さそうとまで、思う。言葉は言霊の時代の方がマシ、笑。

この本のこの部分は含蓄があるわ、と思ったのです。

「自由」「平等」「人権」「個人主義」「弱者保護」等々、ヨーロッパ起源のさまざま な「よきこと」がわが国に上陸すると、これらの観念は一方でわが国古来の倫理観 念をブルドーザーのように破壊しながら、他方欧米における本来の意味を微妙かつ 巧妙に変形してしまう。ここに、同じ言葉を使いながら內実のまったく異なった似 非近代化ないし似非欧米化が進行し、しかもだれもそれに気づかない、という見通しの悪い状態が出現する。

そして、まだまだ続くのです、次はVol.3。もちろん不定期です!

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