「鎌倉殿の13人」:終盤の義時と史劇の役割
1:正直、しんどい。
原因は薄々わかっている。実朝と義時、政子の確執である。
ちゃんと鎌倉時代を学問として学んでいない私のような人でも、近年実朝の再評価が進んでいるのは知っていた。
繊細で実権を握られた哀れなオタク・貴族趣味の虚弱なうらなりビョウタンではない、ちゃんと政治的意欲もあり、朝廷とつきあう上でその歌才は相手の言語で話せる外交能力としても生きた。
苦労はあったろう、軋轢もあったろうが、実朝を暗殺する陰謀を動かすメリットはおそらくどこの勢力にもなかった。
その暗殺は公暁の単独犯説が有力である。
というような、一般向けの談話と言えども史学的な根拠のある話をかじった結果、実朝の出現には期待があったのである。
再評価を更に踏み込んで、それでも尚力不足であり、朝廷に危うい傾倒を見せ義時を敵視するようになっていく実朝と、それを力で押さえて煽るような義時になるとは考えていなかった。
確かに「吾妻鏡」をベースに(関係良好を示す逸話もあるのに)過去幾多の実朝暗殺に関わる陰謀黒幕説が生まれているのだから、「吾妻鏡」からは外れてないと言われればそうなのだけど。
しかし、過去の作品からも考証陣の選択から最新学説に気を払い、コミュニケーションの頻度も膨大と知られる三谷大河を思うと、作者が公暁単独犯他現状のスタンダードを知らない筈がないのです。
とすれば、物語として敢えて深い対立を組む必要があったということです。
おそらくそれは義時と実朝ではなく、義時と後鳥羽上皇との二項対立。
二項対立の果てに、承久の乱を置いて物語を終わりにする。
それは何故か、を考えるとすれば「両方消えてもらう」対消滅の構図になるのではないか。
後鳥羽上皇が示すのは、既にピークは遠く去った王朝政治への復古。これと対消滅しなければならないのならば「国の成り立ちを根こそぎ変える」戦に始まる大変革の時期を生きてきた義時は、既に古い時代の亡霊と化していることになる。
社会が大きく変化し、変化に対する反発から揺り戻しが来てまたそれを超えて前に進む変革の時期を終え、安定に向けて進まなければならない情勢の中で「潰す」以外の問題解決策を出せなくなった男は役目を終えるのである。
2:実朝の感情と隠された解
義時が消えなければならないのは、「板東武者の世を作る」宗時の言葉を変えられないからである。
義時はこの「板東武者の世」の具体像を形にはできていないけれど、昔からの言葉をたどれば、板東と違う土地からの干渉を徹底的に排除した、板東独立軍事政権である。
頼朝から政治の全てを教わった板東者である自分が、彼の血統をお飾りに頂いて「てっぺん」に君臨する。
しかし、勢力の版図は既に日本全国にわたっている「鎌倉幕府」の中枢が板東のことしか頭になくていいのか。
結局自分の領土に干渉する「東の奴ら」に不満を抱いた西国側、もしくは東北から、いずれ反抗される。
二項対立の構図は、どちらかの殲滅かどちらかに併呑されるか、そのどちらかにしか落ち着かない。
鎌倉幕府を守るなら、全国を考える立場にならなければならないのである。
そこで、改めて実朝である。
実朝が皇室の血筋を鎌倉幕府の形式上のNo.1に据えようというのは全体的に見れば間違いではない。
この国の歴史を振り返れば、形式的なNo.1を実務上のNo.1と分け「No.1に殺されないNo.2」を作ることで政権が安定するようにできている。
形式上のNo.1の承認が実務上のNo.1に統治の正当性を与えるので、形式上No.2に甘んじる実務上のNo.1は形式上のNo.1を消し去ることができない。
No.1の首がすげ替えられることはあっても、ひとまず共存することができる。
天皇が直接政治を司る時代から実権が藤原摂関家へ移った歴史だけでなく、目を転じれば将軍を「お飾り」に置いて執権が実務を握る制度を狙うのも同じである。
本作の実朝、言い出す施策そのものは史実通りそれなり正解なのだけど、その策が出てくる基盤がとんでもない感情論なので、正解としての説得力を失うとても残念な造形になっている。
義時への恨みが実朝の原動力であるのが明らかであり、御鳥羽院を冷静に見ておらず、しかも公暁を完全に無視している問題が先に立つ。
しかし自らお飾りとして価値の高いNo.1を迎えいれるのは政策として悪くなかったのである。
皇族将軍の後見をする実朝の傍で、結局実務を任されるだろう泰時を残して義時は引退すればよかったのである。
実朝に実子は生まれない。新血統の将軍は実朝が大御所のポジションを手放さないのであれば、実朝を凌駕する実務力を持たせられない。
結果はきっと実朝の血統が続いた場合と変わりなかった。
今度こそ隠居を引き留められはしなかったろうし、朝廷に鎌倉幕府の正当性を保証されれば幕府の地位は安定する。
ふたつに別れた勢力を再びひとつの構造の内へ戻す試みは、時代の要請である。再び「新世界より」をBGMに発表されるに相応しい。
いつまでも「西の奴ら」と「板東の我ら」で対立しようという概念こそ前時代の亡霊となるのである。
3:遠き山に日は落ちて
板東をつぶし王朝政治への復古を目指す上皇と、西からの干渉を潔癖に排除せねば幕府が潰れると信じる義時が、共に消えて初めて次の世界に社会は進む。
それを示すのならば、両者共に消えて清々したと言われる程に、醜悪でなければならない。
散って美しい夢となる「敗者の美」ではなく、朽ち倒れることで森に光を導く「勝者の滅び」である。
その滅びを劇的に飾る為、本作は上皇と義時の二項対立を史実を超えて強調してきている。
畠山の乱に繋がる北条範政の死因、和田合戦に至る謀反計画を持ちかけた謎の男泉親衡の正体。
明確な証拠のないグレーゾーンに全力で叩き込まれる上皇の差し金。
血縁なき弟という義時の傷、神剣なき帝という上皇の傷。
狙われた恐怖と反撃の恐怖とが義時と上皇を醜悪に追い込んでいくだろう。
慈円の言うとおり「最も自分に似た者が最もおそろしい」のだから。
姿が見えるようで見えない位置からの攻撃に身構える恐怖が人の思考を変質させ、相手がいる限り自分が死ぬと思い決める。
そして至った対決の果てに生き残った側も深刻なダメージに自分を維持できず、ほどなく消える。
クリスティの「そして誰もいなくなった」を思わせる構図です。
誰が生き残った「最後の一人」を追い込んで片づけることになるのか。
望んだかどうだかわからない内に「この国の成り立ちを根こそぎ変えてしまった未曾有の大戦」に巻き込まれ、前例のない中で必死に戦後の安定を目指し、果たせず、成果は次代に託さなければならない。苦労は多く省みられることの薄い人生。
三谷幸喜が「北条義時の大河ドラマ」をそう作る意図はなんだろう。
実朝と、あるいは政子と「史実」にない程険悪にしてまで、義時に正しさも意義も目立たない徒労の人生を送らせる意味は。
しかしここで今視聴者として想定される人の過ごす、限界まできた長年の不景気に、コロナ禍に、疲弊しきった社会情勢を考える。
自分の夢だったのかもわからない社会の変化に巻き込まれ、何が正解だかわからないまま周囲の意図を酌んで動くしかなく、その結果には自分も他人も何となく不満を残し、じゃあいっそ全てを変えてやり直そうかという程の気力も残っていないままぼんやりと昨日の続きの日を送る。
そんな小四郎義時の姿は、割と今等身大の主人公なのではなかろうか。
その姿に憧れるのではなく、「おまえ一人の悩みではない」と思う為の小四郎義時なのではなかろうか。
物語は常に同年代の観客に向けて作られる。
過去の現実を検証し積み重ねていく史学の再現ではなく、人一人の人生を歴史の上に物語として書く意味は「おまえ一人の悩みではない」なのではないかと思うのです。
自分の生まれる遙か前から、自分の死んだ遙か先にも。
その上で、今の生活にほんの少し前を向く勇気を。
それが先に生きる誰かを救うかもしれない。
正しくも強くもない大多数の人に向けた、救われない主人公という解。
これがひとつの集大成なんだなあと、小四郎の孤独を思うのです。
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