「鎌倉殿の13人」:大河という世界について

1:物語が広過ぎる

 困ったな、と思うのです。
 最終回まで全部見た、それぞれつらいしんどいと言いながらどのエピソードも興味深かった。私は放送中に7本も、モチーフだったり事件の位置づけや意義を考えて記事も書いている。
 にも関わらず、全部見た後で改めて「全部」のことを感想にしようとすると、どこに焦点を当てていいものか納得のいくポイントが見つからない。
 小四郎義時の死と共に終わってしまった物語は、意外なほど後に高揚を残さなかった。
 それは面白くなかった、という意味ではなく、どちらかと言うと物語と一体化する高揚を拒絶することに意図があったということだろうと思うのです。
 つまり、考えろと。
 この時代を使うことで、物語にどんな意味を持たせることができるのか。
 研究者である考証陣と密なコミュニケーションを取りながら、史実とはちょいちょい離れた物語としてこの解が出力される意味は。
 おおよそ50に近い話数を、長期間の準備と制作で作り上げる希有な作品の「らしさ」とは。
 幕府と長い目で見た一族の為、という「私」の無さ故に却って没個性となる小四郎義時の設計意図は。
 そもそも歴史をフィクションの題材にする意味は何なのか。
 ひとつの項目に没頭するな、あらゆる角度を考えろ。
 そう言われているように思います。

 その原因のひとつは、おそらく視聴者の視点を代表するような人物のいない、高い視点。
「新選組!」「真田丸」よりも視点をやや上げることを今回のチャレンジと関連番組「三谷幸喜の言葉」で三谷さん自身が語っています。
 高い位置から俯瞰すれば、大いに盛り上がり深い印象を残した事件も人物も、全てが並列されたひとつひとつの点になる。
 その歴史年表のような冷静さと裏腹に、ひとつひとつの点自体は印象深く刻まれて、ふとした拍子にいくつもの点が重層的に呼び起こされるとき見る側の心は大きく大きく揺さぶられる。
 最終回後の印象が「物語全体の高い視点」という、主題も思い入れもすっ飛ばして物語の構造に行ってしまうということは、構造から理屈で考えていかないと言葉の内に収まりきらないスケールの大きさだったのかなと思います。
 何よりラストシーンに向けて、話は小さく畳まれなかった。
 太郎次郎時房という小四郎の世代が育て上げた次世代は自分の時代に向けて動き出し、後に残された旧世代を象徴するように小四郎と政子が朽ち崩れていく。
 小四郎が死ぬ、それだけであってのえという火種も三浦の不穏も解決した訳ではない。
 何も終わらないし解決しない、ただ流れていく時の中で「主人公は死んでいく」だけのラストシーン。
 小栗さんの演技は、役がどう画面に映っているべきか、自分の外に視点を置いた感じがある。それが結局小四郎の、どこか見る者の共感を拒む雰囲気だったのではないでしょうか。
 演劇的であり、文学でありました。
 俯瞰視点での演技が可能な小栗さんが主演だからこそ、綴ることが可能だった「高い視点で描くスケール感の広い史劇」なのではなかろうか。

2:神話と歴史の間

「この国の成り立ちを根こそぎ」変える戦。
 初回の最後と最終回の最初にナレーションで繰り返されるフレーズ。
 最初の戦は源平合戦、最後の戦は承久の乱。
 源平合戦は鎌倉幕府という武家政権の萌芽をもたらし、承久の乱は調停政治に止めを刺して武家政権への流れを決定づける。
 この二つの戦の間に挟まれた、何一つ前例を頼ることのできない政治の根幹を変える時代は、確かにドラマチックな設定です。

 天皇家は大和王朝誕生以来の神々の末裔。
 神話を統治権の根拠に持つ王朝政治から、統治権を得る過程が記録に残る幕府政治への権力の移転。
(幕府の統治権の正当性も朝廷によって与えられる官位に依ると言えますが、朝廷の命令に反抗が可能になること自体が失墜を意味します)
 律令どころか、都から離れれば文字さえ読めぬ者が珍しくない武家階層にまで「決まり事」である式目が周知される、知識と文化のゆるやかな広がり。
「神話の時代の終わり」というモチーフは、史劇だけでなく年代記形式のファンタジーでも好まれる格調の高さがあります。

 一方、この時代を表していく主人公はどうか。
 伊豆の小さな豪族の次男坊に過ぎなかった小四郎が、姉政子の結婚と長男宗時の早世を経て頼朝側近、ついには実務上のトップ執権の座に至る出世物語の要素を満たしながら「本人の望んだ出世ではない」という部分で捻りを持たせる。
 他人の欲の間で揉まれつつ自らは損得野心を考えることのない小四郎が、その私心の無さ故に却って聖域なき粛清を躊躇わない無慈悲な「狂王」となっていくモチーフ性が読みとれます。

 神の末裔である支配者と、成り上がりの狂王とが争う神話の時代の終焉。
 支配者を放逐した狂王は、朽ち崩れていくことによって次世代、人の時代の担い手を解き放つ。
 モチーフを合わせて考えると、「鎌倉殿の13人」は終わっていく神話としての性質と、この先に続く人の歴史に思いを繋げる史劇の性質を兼ね備えます。
 ここで少し思い出していただきたい。
 古代の歴史書は、自分が支配権を持つ正当性を証明する由緒書きを成り立ちとしています。
 中国なら三皇五帝から、日本なら天孫光臨から。古いもの程為政者を正当化する神話的な創作を多く含み、それ故に長く史料としての価値は低いとされてきた。
「吾妻鏡」もそのひとつです。
 建国神話と歴史が混交する「吾妻鏡」をもう一段エンターテイメントに踏み込んで描けば、それは「三国志演義」ならぬ「吾妻鏡演義」、あるいは「絵本吾妻鏡」とでもいうべき作品にならないか。
 タイトル初案は「吾妻鏡」だったと聞きます。
「大河ドラマ・吾妻鏡」。
 あまりに古めかしく野暮ったいタイトルですが、例えば「小説」「巷説」と但し書きのように冠することで史書を原作とした「フィクション」であることを強調するコンセプト、昔ながらの歴史物諸作品をイメージしたものだったのではないでしょうか。
 三谷さんの思う「大河らしさ」というのは、華やかに格調高く見せつつもハッタリを含む、歴史エンターテイメントの泥臭さなのではないかと思うのです。

3:誰がために考証はある

 大河ドラマなり、小説なり、ゲームなり、歴史を題材に取った創作物では「史実とのかけ離れ」は必ず揉める部分です。
 ことに大河ドラマは必ず「どの程度史実に忠実か」を問われます。
 創作が入る時点で史実な訳がないんですけどね。
 突き詰めれば歴史上の人物は役者と同じ外見ではないし、当時の馬は品種が違い、人物の着る着物の色は当時の染色技術と購買力を反映しない。撮影地は当時の現地ではありえない。
 嘘をついてはいけません、という実生活の倫理観で、前提が架空のエンターテイメントの価値を計るのは尺度違いです。
 じゃあ何故「歴史考証」として学者の先生の協力を仰ぐのか。
 それは勿論、「面白いストーリーにするため」であって「嘘を取り締まるため」ではない筈です。
 大河ドラマは一年にわたる長い放送時間を使い、最初から多くの人に見せることを前提として、キャストをはじめ制作技術も贅沢につぎ込む作品ですから、ことに近年は物語としての要求水準が高い。
 どんなに天才と呼ばれる人であっても、長年ストーリーを書き続けているプロであっても、人ひとりの想像力には限度があります。
 今年を例に計算して全48回、1回あたり45分、合計約36時間。3時間の映画でも12本相当。
 この大型枠をシリーズ物ではなく、通して一本の物語で作らねばならない。
 一人の恋、一つのプロジェクト、ある事件の追跡。そういう普通のドラマで描く題材では到底持ちません。
 もっと沢山のエピソードを使う必要がある。それぞれのエピソードに関わる数多くの魅力的な人物をバリエーション豊かに配し、物語の求心力にしなければならない。
 その上視聴者に一年つきあってもいいかなという期待を持たせるキャッチーさも必要です。
 だから題材は歴史となる。
 いくつものエピソードを含んだストーリーを切り出しやすく、関わった人物も実在の人から選べて、沢山の人にとって興味を持ちやすい「知っている人の話」になるからです。
 脚本家は歴史の専門家ではない。
 だから現代ものなら題材とする場所に取材に行くように、歴史なら題材となる時代を専門にしている先生に聞きに行く。
 考証担当の先生が、基礎資料の選択も含めて一から全部お世話するとも思っていません。企画段階から脚本家と共に汗をかくスタッフがいる筈です。
 そういう制作支援スタッフの一部が「歴史考証」の先生であるでしょう。
 他にない超大型作品枠だからこそ、他の単発または1クールのドラマ、数時間の映画、その他のエンターテイメント作品より支援も手厚くなる。
 作品を強固に、面白くするためです。
「間違った知識」を視聴者に与えるのが危険だというなら、そもそもドラマなんか見せるものではない。

 あくまで素人の推定ではありますが、登場人物は物語に添った骨格に、演じる役者と演出陣が肉をつけることで出来上がる。
 大河ほどの長期間の制作においては、話数を積み重ねる内「登場人物」は段々脚本家ひとりではなく制作現場との共有物になるのではないか。
 人物の基礎は「今」の最先端である知識を元に作り、その上に出来上がってきた「らしさ」を生かして華やかな見せ場を物語に作る。
 エンターテイメントだから。
 史実に反するからと「これしかない」終盤の見せ場を諦めることが、一緒に人物を作り上げてきた役者と演出の仕事を裏切るとしたら。
 この作品は主人公はこう見せて終わらせるのが一番映えると決めたことがあるのなら。
 脚本家が史実から離れる決断をするのはひとつの見解でありひとつの責任でしょう。事実はドラマが面白くなかった責任を取ってくれない。
 面白い物語を書くのは、脚本家の使命です。

 俯瞰的な視点でスケール感豊かに、「神話の時代」の終わりを生きる「狂王」の物語を描く。
「鎌倉殿の13人」はフィクションとしては王道の、そして構成要素がきれいにはまった「三谷大河の集大成」にふさわしい作品だったと私は思います。

 ただ、事前の宣伝で「史実準拠」を強調しすぎたのではないか、という問題は別にある。
 どうも作り事はチャチで、価値あるものだと主張するには事実でなければならない、という空気もよくないなと思うのです。
 物語の内容が史実であると強弁する「フィクション史観」を取る人が、現実と虚構を混同するリテラシーの無さを笑われるのは当然です。
 しかし「うそかほんとか」でしか創作物の価値判断ができないのもまたリテラシーが無いと呆れられていいんじゃないでしょうかね……。
 虚構と現実の区別ができておらず、それぞれに別の流儀と価値基準があることを理解していないのは同じ事なので……。

 高い視点の客観性ゆえ心情に入れ込めなくて物足りないな、と思ったとき、まだ語られていない話がある筈だ、とおもったとき、視聴者はどこにスピンオフ的な物語の源泉を頼るのか。
 鎌倉の歴史へ、原作「吾妻鏡」へ行くのなら、「鎌倉殿の13人」としても本懐なんじゃないでしょうか。
 フィクションの面白さを盾に歴史を侮るのも、できればフィクションの広げた興味の裾野を素人と侮るのも、なしにしたいですね。
 史実とどう離れてどう処理したか、そこの場所と理由にフィクションを作るそのものがある。
 両方大事にしないと、どちらの値打ちもわからないと、私などは思うのです。

 視聴者として、どう楽しむ、という考えも含めて「集大成」を渡された、そんな気持ちでおります。
 えらい作品でしたねえ。

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?