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何もない街が私をも変えた 私の好きな色が大仏さん

私にとっては衝撃的なニュース。
朝から泣いた。

↓  ↓


自己肯定感の低さと繋がった

私が18歳まで生まれ育った街。
今も両親が住む街。

「何もない街」と私もこの記事を読む前はそう思っていた。

この「何もない」は、街だけでなく私自身にも染み付いている。私の自己肯定感の低さの根源を教えてくれている感覚で、この記事を読ませてもらった。

諦めずにオープンしてくださったことが私自身の「ない」を「ある」に変えた。私自身の拭いきれない自己の「ない」をじっくり見つめるきっかけともなった。

高齢者の両親でありながらも日常、隣接市の氷見市のスーパーに出かけている。両親にとっての基準のモノサシは「魚」にあるようにさえ思う。

雨晴海岸の美しさは「背景」であり「ない」だった。最高のロケーションの立山連峰も天気によっては実際目に見えない。あの美しさに感動したのは20歳を過ぎてから。バックミラーに映った立山連邦に二度見して、ひとり思わず声が出たのを覚えている。この地を離れ、心痛めて帰郷した時初めて知った美しさ。

高岡古城公園も高岡城跡でお城が「ない」

大人たちは「その先いつか訪れるであろう幸せの時」のために忙しく「コロッケ」が夕飯に出る家庭が多かったという「高岡コロッケ」。今の実情はわからないが、実際私も遅くまで働く両親の元コロッケで育っていた。

私にとっての高岡は「この場から、この時から」の「先」への出発地点の場であって「ない」から今まで転々と旅に出たんだ。

「今ここ」

じゃない魅力に惹かれてこの街を出たのだ。

私の好きな色は大仏さんだった

そして何より私が好きなブルーが多い街というのは意外。思えばドラえもんもブルーだ。青銅器の街でもある、あの緑がかったブルーは私の最も好きな色でもある。思えば一番好きな色は大仏さんだったんだ。知らず知らずに見ていたのだろう。

しかも、このブルーを「やわやわブルー」というのがジワリとハートにくる。会話にある「やわやわ」のイントネーションが記事上では伝わらないのが残念。でも私は「やわやわ」と今は使わなければ、昔も使っていたのか覚えていない。ただ高岡育ちの父の「やわやわいこまいけ」は耳に焼き付いている。そして氷見育ちの母から「やわやわ」は残っていないから、すごいことのように思う。

年末年始に両親に会って、「やわやわ」のペースに苛立ちも感じたけれど
今回この記事を読んで、私の根底に流れる「やわやわ」ペースの人を思い出させてくれた。

「やわやわ」とは「ゆっくり」

なんだか焦りを感じる毎日が楽になった。

「ない」が「ある」に変わった

大仏、七夕まつり、御車山、ケンカ山、海水浴場、花火大会、高岡城跡の桜、獅子舞、土蔵造りの街並み

昨年は瑞龍寺の国宝に加え、勝興寺も国宝に認められたと文句の多い両親も感動していた。勝興寺の七不思議もごく自然に受け入れていたことも思い出す。

原因不明の肌荒れに悩んだ時は、昔から言い伝えられているらしい高岡に湧き出る「腐らない水」まで渡された。

日本中を見渡せば、どれもこれも一番じゃ無いけれど、「ある」いや「ありすぎる」

方言の「なーん」が、いろんなことをあるものを消していたようにも思う。「なーん」とは「違う」という意味の否定語であり、色々誤魔化せる言葉。
ここに私の自己肯定感の低さが全て込められているのでは、と思ってしまうくらいメインな言葉。これからは「ない」ことを「なーん」でひっくり返したい。

4次元ポケットとタイムマシン

故郷がこんなにも自分に影響していたとは想像以上。そしてこのSEKAI HOTELのオープンが、離れて住んでていながらこんなにも影響を受けるとは驚きです。本当にあの街にここまで動いてくださったことに感謝です。

今私自身、思い描いたことをカタチにすることの難しさに直面してます。比べ物にならない小さな小さなカタチではありますが、カタチに表すことのありがたさを実感し、勇気をもらいました。

私もずっと通って育った文苑堂書店の旧本店跡地がそのまま入り口になっているのも感動です。

藤子・F・不二雄さんの育った高岡の街。このSEKAI HOTELの入口は、私にはドラえもんポケットや、のび太の机の引き出しにも見えます。ここで買って繰り返し読んだドラえもんの漫画第一巻。感慨深いです。

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