「これってなんだろう?」と問う心

私は古事記をたまに読みます。少ないときは1ヶ月に1回程度ですが、古事記を読んでいると、まとまっていないまま内側にある「こういう形に進ませたい」という何かが多少でも明確になることがあるので、「今日はまとめるぞ!おー!」と意気込むわけでもなく、ぼんやり読んでいる時があります。(ぼんやりと読むべき本なのかはさておき)

今日、お昼ご飯を食べながら、「問う心ってなんなのだろう?」と思っていました。私はよく何かを食べながら何かを思いついたり、私は思い違いをしていたかもしれないと気がついたりして、しかもそれにたまに助けられたりします。おかげでちっとも痩せません。

問いは国生みの時に出てきます

「問う」というシーンが古事記で初めて出てくるのは国生みです。序盤も序盤なので古事記は難しいと挫折した方でも覚えているようなシーンなので安心です。

降り立った淤能碁呂島(おのごろじま)で伊邪那岐神と伊邪那美神がするのが最初の問いかと思います。「あなたはどのようになっているか?」 という質問です。

その後、「国を生み出そうと思うけれどどうか?」「よいでしょう」というやりとりの後、国生みが思うようにいかずに天つ神に指示を求めます。天つ神から太占で占うように命じられ、占った結果、女神の方から先に声を掛けたのがよくないので改めて言うようにとのことでそのようにして淡路島が生まれました。という流れになります。

生みだそう、創造しようのシーンに起きる問う行動

協力をして生みだそうというシーンと一緒にあるんだなぁ・・・・・・。と思いながら問いのことを考えていました。

自分の持っているこれはなんだろう? 生み出してみない? なぜうまくいかないのでしょうか? 何が違うのでしょう? そして、改めよう 

こんな流れが、問うこととともに展開していきます。創造のための手順をおろそかにすると成就しないこと、その手順を選び直すという意思がこの段では描かれます。

私は質問を磨く会で、問うことにより流れも生じると思ってきていますが、問いが作る調べを感じていると自分に展開しているものを把握しやすいなと古事記を読みながら思い返していました。

問うことは自分の本来の目的、成就するために必要な行動に連れて行ってくれたり、安心に自分を導いてくれるものだなと思います。
「どうしてこんなことしたの!?」「どうするつもりなの!?」のような質問の体裁を取った攻撃はまったく安心感はないですが、「どうしてそれがいいって思ったんだろうなぁ私」とか「どうするつもりとか考えるのも嫌だったかも、未来にいいことがあるって思えてないな なんでだろうな」とか自分に聞いていく時は安心できる余白ができるように思います。

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