見出し画像

お爺さん(74歳)の思い出 その29 戦後の復興期

我が家の農業の始まり

父は、実家の跡取りとして、農業を始めました。とは言っても、農地が多くあるわけではありません。そこで、小作(地主の土地をかりて農作物を作ること)をはじめました。一反〜2反位の土地を借りて、少々場所が悪くても耕作します。昭和40年(1965年)頃には、6〜7箇所で約一町歩の田んぼを作っていました。

一方、山では山林(杉山)の間を耕し、畑作をします。杉を植えた間に作物を植える。こうする事により、杉の下草刈りをしなくて良くなります。野菜を作って🥦、下草刈りをしなくて済む訳ですから、畑の少ない農家では、皆さんそうしておりました。

田んぼでの稲作も、色々と大変な事がありました。戦後すぐに田んぼを耕すのは、牛を使って(役牛)、鋤鍬で耕します。荒起こし、荒明け、シロカキと牛の背中に鞍を置いて、鋤鍬などを引っ張ってもらうのです。後に耕運機が出来て、随分楽になりました、そこから、今のトラクターへと、進歩して行きます。

画像1

刈り取り、竿干しをしたら脱穀です。脱獄も当時は、足踏みの脱穀機でした。脱穀した籾の後処理、「とうみ」にかけて籾と藁カスとに、風を吹かして分けるのです。「とうみ」は手回しですから、風の加減が難しく、ちょっと強ければ、籾を吹き飛ばしてしまいます。

次は、出来上がった籾を自宅まで運びます。
これも、牛の🐂力を借ります。牛の背中に鞍を置いて、背負わせるのです。そうして山道を歩いて、我が家まで運びます。

画像2

乾燥は、天日干しです。天気の良い日を選んで、自宅の庭に「ムシロ」(藁で織った広い敷物)を敷いて、その上に籾を広げます。天気との勝負です。ですから、一旦夕立ちなど急な雨が降ったら大変です。当時の農業は(今もそうですが)天気に、物凄く影響を受けていました。それだけに、田舎の人でも天気を読む事に長けていたようです。

前後しますが、稲作には水の管理が欠かせません。昔の人は凄いなぁ〜と感心するのは、5〜10kmもある先の川から水をとって、小さな水路を通って自然流下で、目的地の田圃まで水を運んでいた事です。今でも、大きな水路は残っていますが、昔は小さな水路(手掘りで普通の土だけで出来ている)を、田んぼの位置や高さや地形を見て、作っていたのです。凄い技術だといつも感心しておりました。

本日はここまでにします。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

次回も宜しくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?