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ここ最近の政治を考える

 ここ最近の政治に難しさを感じることがは多く、今回はそのことを書いてみたいと思います。
 
  最近の政治は争点が単純化され、自分側とそれ以外に分ける分断が進行し、いつからか政治というのが、自分に賛同する片側だけを対象にしているように思えます。こうした意識は日本では有力政治家が自身の演説の中で自国民を指して「あんなひとたちには・・」という言説をするところに現れているのではないでしょうか。政治が問題解決能力を失ってきているように見えます。

 こうした分断はたぶん昔からあったもので、いままでは国同士や西側・東側といったレベルでの「境界」であり、国家の成り立ちに基づく文化的・歴史的な認識とある程度合致していたものが、より深く「国内での分断」が進み、顕在化してきているのではないか。特に西側諸国で極右といわれる勢力(まずは自国のことを考えたい)の台頭によりその分断が進んできているように見えます。
 またロシアがトランプに秋波を送るように、力での現状変更を求める国は西側に干渉されたくないので、極右と国を超えての連帯を志向するため、国家という境界を自国民がどうとらえるのかが非常に難しくなっているのではないでしょうか。

 日本国内での分断について東浩紀さんの訂正可能性の哲学で宇野重規さんの定義を踏まえた議論がなされています。

 日本では保守・リベラルという2軸ですが、そもそも保守とリベラルって本来的な意味からすれば対立軸になってない。(言葉の定義見てもそうですよね)  例えば保守側が憲法改正を求めて(「保守」なのに?)、リベラルは護憲を主張する(こっちが「保守」的?)。いまや保守とリベラルの違いは政策対象の範囲でしかない。例えば弱者支援するといったときに理念は全員賛成だけど、保守は「わたしたち」の範囲で始め、「リベラル」は可能な限りその範囲を広げるといったことですね。「わたしたち」という範囲は都度都度異なる。

 この定義は非常にわかりやすく示唆に富んでいるのですが、もう少し細分化され、対象範囲により保守右派(強硬派とか極右)、保守左派(穏健派)に分かれてきており、冒頭に書きました分断は保守右派とそれ以外になってきているように思います。
 ただ強硬派、極右というと言葉は適切ではないように思います。この分断のおおもとのところには行き過ぎた資本主義による富の偏差があり、経済的な困窮がある。移民排斥についても自分たちの仕事はない人々からすれば「まず自分」ということはある意味当たり前のところがあり、保守右派がかならずしもおかしなことを言っているわけではないように思います。

 問題は、国内での分断の延長が行き過ぎた自国ファーストにつながり、他国への無関心をよび力により現状変更が進む、というところにあるのではないかと思いますが、ただだからといって国外の問題を考えて自国を我慢しようと論理は説得力をもっていない。

 こうした国内での分断を「言葉」で説得することは難しく、つまるところは国内、国同士の経済的格差をどうしていくのかが最重要課題なのではないでしょうか。岩野卓司さんの「贈与論」で紹介されているバタイユの太陽の贈与による世界平和論のイメージがヒントにならないものかと思ったりします。

 また問題を単純化することなく「難しいことは難しい」ので、時間をかけて議論する、結論を急がない、両論併記などが誠意ある態度(内田樹さん的)だと思うので難しいことではあると思いますが、政治の議論でもこうしたことは十分になされるようになってほしい。

 これからも考えていきたいと思います。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

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