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神の願いは全体の永遠の幸福

何か悪いことをすると神の裁きを受ける、と言われることがあります。

これは人間の一方的な見方をであって、神は裁きを与えることはありません。

というより神には裁きがありません。

裁きを持っているのは人間だけ故に、人間だけが裁きを行うことが出来るんです。

神は人に様々なものを与えますが、それはより良くなることが前提となっているものです。

だから神は歓喜、弥栄であると言われます。

神は永遠の立場から歓喜、弥栄を与えるため、一時的に苦しみを与えることもあります。

苦しみ自体は悟りの条件ではありませんが、苦しみをきっかけに外側から内側を見るようになるからです。

人は外側という結果ばかりにとらわれて、外側だけを変えようとします。

ですが内側である原因を変えない限り、外側が変わることはありません。

だから神はあらゆる手段を使って、内側を見せようするんです。

内側と向き合い、改心するまで・・・。

思い通りにならないとか、良くないことばかり起こると感じている方は一度、自身の内側と真剣に向き合ってみることです。

人間の内側とはエゴの塊ゆえに目を背けたくなるようなものばかりですが、神はそれと向き合わそうとしているんです。

それこそが日月神示で言われている抱き参らせることであり『自分と自分と和合せよ』だと私は感じています。

向き合わないとは嫌うこと、裁くことであり、結果として自身を嫌い、裁くことになります。

だから本当に自分を大事にしたいなら内側にあるもの一切を抱き参らせることです。

内側を大事にすることは外側も大事にすることになり、それは一切を大事にすることだから一切から大事にされるんです。

神の願いは全体の永遠の幸福です。

それを実現するために神は人間に内側を見せようとしていることを忘れないで下さい。

以下は日月神示の一文です。


日月神示
【白銀の巻 1帖】
自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのざぞ。
和合した姿を善と申すのぢゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、それが間違いであること合点か。
一切が善いのぢゃということ合点か。
地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。
合点ぢゃナァ。         

【月光の巻 25帖】
自分と自分と和合せよともうしてあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。
さらにまた奥の自分と和合せよ。
一番奥の自分は神であるぞ。高い心境に入ったら、神を拝む形式は無くともよいぞ。
為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。
山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。
草木動物悉く自分ぞ、歓喜ぞ。
その自分出来たら天を自分とせよ。
天を自分にするとはムにすることぞ。
〇に化すことぞ。
ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。

【月光の巻 38帖】
まず自分と自分と和合せよと申してあろうが。
そこにこそ神の御働きあるのぢゃ。
ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。
元の喜びは霊の食物を食うことぞ。
その大きな喜び与えてあるのに、何故手を出さんのぢゃ。
その喜び、驚きを何故に求めんのぢゃ。
何故に神示を食べないのか。
見るばかりでは身につかんぞ。
よく噛みしめて味わいて喜びとせんのぢゃ。
喜びが神であるぞ。
次には神との交わりぞ。
交流ぞ。
和ぞ。
そこにはかつて知らざりし驚きと大歓喜が生まれるぞ。
神との結構による絶対の大歓喜あるのぢゃ。
神が霊となり花婿となるのぢゃ。
人民は花嫁となるのぢゃ。
わかるであろうが。
この花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。
永遠に続く結びぢゃ。
結魂(けっこん)ぢゃ。
何ものにも比べることの出来ぬ驚きぞ。
よろこびぞ。
花婿どのが手を差し延べているのに、何故に抱かれんのぢゃ。
神は理窟ではわからん。
夫婦の交わりは説明出来まいがな。
神がわかっても交わらねば、神と融け合わねば真理はわからん。
何とした結構なことかと人民ビックリする仕組ぞ。
神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。
消えざる火の大歓喜ぞ。
これがマコトの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。
早う神の懐に抱かれて下されよ。