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純粋性が人の本性

『皆さんに必要なのは導師(グル)です』と師匠から言われたことがあります。
導師は純粋性と理智を兼ね備えているから人を正しい道に導くことが出来ると言われます。

人の考えは極端ゆえに不純です。
導師は両極の意味を知るゆえに純粋だから、人の不純を見抜き、人を導くことが出来ます。

現実に導師に出会うことは容易ではありません。
しかし、皆さんの内側にはすでに導師は存在しています。

生きている上で誰もが後ろめたさ、やましさ、後味の悪さを感じたことがあると思います。
それらを感じるのは純粋性を持っているからです。

人の本性は神であり、悟りであるから純粋であって当然なんです。
ただそれに気付いてないだけなんです。

気付けないのはエゴという穢れが純粋性を覆い隠しているためです。
修行や学びと呼ばれるものは穢れに気づき、穢れを落とすためのもので、新しく何かを得るためのものではありません。
心を静かに、じっくりと自身の思い、考え、感情と向き合ってみて下さい。

子供のような我がままな思い、自分勝手な考えものがあるかもしれません。
他者への嫌悪、憎悪、不満、蔑視などがあるかもしれません。
自身に対する言い訳、都合のよい自己弁護があるかもしれません。

いずれにしても自分という立場から生まれたものはエゴであり、穢れです。
エゴはなくすべきものですが、持っていることが悪ではありません。

エゴに気づき、エゴとともにあることがエゴを消し去ることになり、それ自体が神への道を歩くことになります。
エゴという道標がないと人はどこをどう歩いてよいかわからないんです。
だからエゴも必要としてあるんです。

エゴと向きあえば向き合うほど、純粋性が現れてきます。
その純粋性が皆さんの正体です。

純粋性という内なる導師の声に従うことです。
以下は以前、師匠から純粋さについてのお説教です。


【師匠の教え】
導く者、それは内なるグルである純粋さの意識です。
皆さんは内側に導く者であるグルを持ってます。

この内なるグルは常に貴方を導いている。
内なるグルの声に耳を傾けなさい。

貴方が感じるものは何であれ内なるグルはその答えを貴方に語る。
貴方が何かを知った時、そこに不純性を感じたらその原因を見極めなさい。

エゴが行う行為には常に不純性が伴います。
なぜでしょう?

エゴとは常に何かの利益を求める企てを行い、それが行為に反映されるからです。
だから不純になるのです。

その不純性を不純だと感じるのは内なる純粋さです。
それが内なるグルの声です。

内なるグルは貴方に不純性を感じさせ問題を察知させます。
だから内なるグルに従えばどんどん純粋性に引き付けられてゆくのです。

だから悟りに向かうのです。
エゴのない純粋さ、それが悟りだからです。

私が語る、世界一家は貴方の内のグルも語ります。
私は皆さんの内側深くにもいるのです。
なぜ内なるグルの声が聞こえないのでしょう。

それは人が欲望を持っているから、その不純さに隠されてしまうのです。
私の声が皆さんの外側と内側深くから聞こえませんか?

外側のグルと内側のグルは同じ者です。
この内なるグルとはもう意識とも呼べないほど純粋な心または意識であり、これが本来の貴方です。
私は私であるものです。

俊和さんが困っているようだから、ちょっと語ります。
〇〇さんが暗黒面を感じたと語ってますがそれが内側のグルの声です。

エゴが目的を持って行為するとどんな行為であれ不純性を持ちます。
だから何か変だと感じるのです。

俊和さんが感じなかったのは同じ不純性の求めを持っているからです。
その不純性の目的が先に進んでしまったのです。

例えば願望実現の謳い文句の瞑想教室には願望実現を願っている人しか集まりません。
心が清らかな人は願望実現の謳い文句に不純性を感じて近づきません。

不純性に気づかない人は自身が同じ不純性を持っているから魅力を感じるのです。
力と差別を求めていると力と差別を謳う教師に惹かれるのです。

自分が純粋なら純粋なものを、人を求め、また純粋な人が近づいてきます。
これが引き寄せです。
俊和さんの問題は求めに不純性があるのに、それを得るには純粋性が必要だから困っていると思います。

私は世界一家を作るために今ここには邪魔な人は迷うことなく『ここは今の貴方に相応しくありません、どこかに行ってください』と語ります。
そしていつの日にか必要になれば一度追い出した人を今度は迎えに行きます。
これが排他的なのでしょうか?

今は邪魔になるものを置いておいて世界一家が訪れるのを遅らせる事が排他的ではないのですか?
なら私は排他的でよいのです。

覚者の特徴とは善人か悪人か分からないことを平気で言うが、その言葉は純粋性から現れているのです。
善悪を分別しない純粋性から語られるから一見、善人か悪人か分からなくなるような事も語るのです。

ところが覚者の本を読んでごらん。
どこからも不純性を感じないのです。

最も純粋な所から行為が現れているからです。
不純性を感じる覚者を見たことがありますか?

覚者にとって自分も他人もありません。
覚者にとって凡も聖もないのです。

皆さんは既に悟っている、悟ってないと思う思いがあるからそれを自覚出来ないだけです。
だから覚者から見たら悟っている人と悟っていない人などいません。

ただ悟っていると自覚しているものを悟っている人と呼び、悟っていると自覚していない人を悟ってない人と分けているだけです。
悟りは既に誰もが持っているのです。

ほらこのお話にも純粋性を感じませんか?
『私は人とは相当に異なる』はどうでしょう?

分別を超えた領域に異なりはなく、優劣は一切ありません。
優劣を語るのはこの領域に触れてないのです。

だから不純性を感じるのです。
常に純粋性が感じるものを選びなさい。