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気にしても現実は変わらない

誰でも気になることの一つや二つはあるのが当然だ、と多くの方たちが思っています。

その通りです。

気になることがなくなればお釈迦様やイエス・キリスト、空海和尚のような生き方が可能です。

では、この気になることとは何なんでしょうか?

例えば10日後までに仕事をこなさないといけないとします。

期限までに出来ないと思う人は仕事のことが気になって仕方ないかもしれません。

また5日あれば出来ると思っている人は大して気にならないかもしれません。

同じ仕事なのに気になる人もいれば、気にならない人もいます。

何が違うのでしょう?

仕事の出来る、出来ないの違いと思うかもしれません。

ですが仕事が出来る人でも神経質になる人もいます。

また仕事が出来ない人でも平然としている人もいます。

違いはただ気になるか、気にならないかの違いだけです。

グル達はこう言います。

『物事は決して、人間の思い通りにはなりません』

『起こること一切は宿命により決まっています』

決まっていることに対して不満になったり、悩んだりして一体、何になると言うのでしょうか?

思い通りにしなくてはならない、という思いがあるから、あらゆることが気になって仕方ないんです。

仮に世界が人間達の思い通りになるとしたら、どうなるでしょうか?

人間とはエゴの塊ゆえに、人類はとっくに滅んでいるでしょう。

実際に、あるグルは『人間はそのままにしておけば滅んでしまう』と言っています。 

そうならないのは神が一切をコントロールし、ギリギリのところで留めているからです。

起こること一切は神の行為で、決して人の思い通りにはならない、との理解が甘受になります。

甘受した後に現在からより良くに向かってい行けばいいんです。

この甘受が出来るほど気になることがなくなってきます。

不満になっても、悩んでも現実は何一つ良くなることはありません。

それを自身に納得させ、実感することです。

以下は私と師匠の問答です。


【師匠の教え】
『忘れていた』
これがキーワードです。
瞑想のグルはこう言います。
『現代はあまりにも気になることが多すぎる、だから瞑想が難しい』
気になることが全て消え去った時、瞑想になるのです。
ある人たちはこう言います。
『全て忘れてしまいなさい』と。
ですが忘れろと言われて、忘れられるなら誰でも瞑想を簡単に成就します。
忘れろと言われ、忘れられるなら苦しみもありえません。
ですから、私は忘れろとは言いません。
忘れろとは言わず、忘れさせてしまうのが私のやり方です。
気になる原因を消し去ってしまえば自然に忘れるのです。


【私の意見】
私は行為者であると思うと自分の状態が気になり、それに影響すると思われる相手の状態も気になり出します。


【師匠の回答】
自分の状態を気になるのも、世界を気になるのも、個人がいるという錯覚から起きるのです。
私がここで何のために語っているのか、皆さんの気になることを全て消し去る為です。
気になることがなくなれば、なくなるほど忘れていくのです。
私は見るもの、聴くものを忘れているのです。
私がいると言うことさえ、忘れているのです。
気になることがなくなるとそうなるのです。


【私の意見】
忘れることが出来るのは何かに没頭している時だけで、その時だけ『凡は聖、行為者はいない』になり、サマディーの状態になっていると思います。


【師匠の回答】
サマディーとは集中ではありません。
集中とは緊張であり、サマディーは緊張ではない。
気になることが消えると心は自然と統一されて来ます。
それがサマディーです。
心のごく自然な状態です。
俊和さん、凡は聖と言っても凡は間接的教えに生きる聖です。
誰でも真我を既に実現にていると言ってもその自覚がありません。
それには心の停止が必要です。
心の停止と言っても、ラジニーシの言うようにすぐには出来ないでしょう。
進まないと言っても進まなくなるには時間がかかります。
だからそこに道が出来るのです。
無意識層まで停止が必要なのです。
催眠術で暗示をかけると、無意識にそれを実行致します。
これは我々は意識していない無意識層が動く証拠です。
ですからどこかに向かうのではなく、停止に向かう必要があるのです。
無意識の領域まで停止した時、凡の聖から聖の聖になるのです。
なろうとしないことが道なのです。
行為者はいないと凡は聖で気になることの全てを消し去ると、真我の自覚が現われます。
そこまで気になることを消し去るのです。
真我の自覚がないと言うことはまだ気になることがあると言うことです。