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神は人に喜びを与えたがっている

神とは歓喜、弥栄であると言われます。
 
神は人に喜びを与えようとします。
 
ですが神の喜びとは一切のものの喜びです。
 
現代の多くの人が望む喜びとは自分一人、我善しの喜びです。
 
故に神の法に反し、いつまでたっても喜べないんです。
 
例えば自分一人が喜びに浸っているのに、家族や友人が悲しんでいれば、それは喜びと言えるでしょうか?
 
お祭りなどの多くの人が集まっている中で、自分以外の人達が苦しみに苛まれていれば、それは喜びと言えるでしょうか?
 
全体が喜ばないと本当に喜べないんです。
 
皆さんは一時的な、限定的な喜びでいいですか?
 
常時、喜びの方がいいのではないでしょうか。
 
常時、喜びたかったら喜びを与えることです。
 
与えることはいただくことだと以前の記事で書きました。
 
それは個人などなく、全体だけがあるからです。
 
だから与えれば与えるほど、影響となって喜びが増え続けるんです。
 
個人などないから個人の喜びと見えるものは、すぐに消え去るしかないんです。
 
喜びを与えるのは簡単です。
 
あなたの口で喜びに満ちた言葉を発すればいいんです。
 
あなたの表情で喜びを表現すればいいんです。
 
あなたの手で荷物をもったり、撫でたり、擦ったり、他にもいろんなことで貢献できるはずです。
 
些細なことでいいんです。
 
今出来ることをやればいいんです。
 
喜びを与え続けていると、やがてあなたは気づくでしょう。
 
喜びを与えることが喜びであると。
 
多くの人が喜びを与える行為をするだけで世界はより調和的に変わります。
 
全員が行えばそれだけで八紘一宇、神の国の完成です。
 
最初にも書きましたが、この簡単なことを妨害しているのが我善しの生き方です。
 
我善しの生き方に喜びと反対のものを与えるのも神の恩寵です。
 
喜びがないのは、気づきという恩寵が与えられているということを忘れないで下さい。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【白銀の巻 3帖】
如何なる天国も自分でつくるのぞ。
そろばん捨てよと申してあろうがな。
よろこびは理(ミチ)ぞ。
数ぞ。
言ぞ。
真理ぞ。
愛善ぞ。
生命のイキということわかるであろう。
天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。
天国は霊人のみの住む所でないぞ。
そなたたちも今住んでいるでないか。
霊人も現界に住んでいるでないか。
現界を離れて天国のみの天国はないのであるぞ。
故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。
アメツチと申してあろう。
この道理よくわきまえよ。
善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。
まことの天国には喜びのみが生きているのであるぞ。
喜びの中に融け入って、喜びのものとなっているのであるぞ。
喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って嬉し嬉しとなるのぞ。
要らんものは形が変わって来る。
新しき生命湧き出るのであるぞ。
善が悪と、真が偽と変わった時は死となるぞ。
その死は新しき別の生命と現われて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。

善も悪もないのざと申してあろう。
善悪はあるが無いのざと申してあること わかりたか。
自分自身、己の為の善は死し、全の為の善は弥栄えるぞ。
死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ。
弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。
愛ざと申して愛に囚われてはならん。
道に囚われてはならん。
喜びに生きて、喜びに囚われるなよ。
お互いに喜びの湧き出づることでなければ真の愛ではないぞ。
道でないぞ。
天国に道あると申すが、今の人間の申したり、考えたりするような道でないぞ。
道なき道と申してあろうが。
喜びが道であるぞ。
嬉し嬉しの道、早う合点せよ。
生命栄えるもの皆喜びであるぞ。
信仰とは、その喜びの中に融け入ることぞ。
生も死もなくなるのざ。
時間や空間を入れるから、血、通わなくなるのぞ。